マイノリティ雑貨店

自動車、発達障害などを扱うブログです。最近はQMAにはまっています。

MT車、渋滞はこうしてクリアせよ!

MT車って渋滞で大変じゃない?】

まず、MT車を選ぶうえで悩んでいるのはこの質問だと思うのでピックアップしました。

自分なりの結論から言えば、「きつい上り坂の渋滞はきついけど、それ以外はなんとかなる」というのが答えです。では、どうすればもう少し渋滞を楽に乗り越えられるか?という話を進めていきたいと思います。

なお、これは強化クラッチなどではなくあくまでノーマルのMT車を前提としてお話をしています。また、エアコンをあきらかに通常用途外で利用しているためそのあたりもご理解の上お進みください。

 

【アイドリングだけの力で車は動かせる】

車間を空けぎみにして1速でクラッチをつなぎます。そのままアクセルもブレーキもクラッチも踏まないでください。「アクセル踏まないとエンストするんじゃないの?」という声が上がりますが、しません。

自分はこのペダルを一切踏まないでアイドリングだけで進ませることを「クリープもどき」と勝手に命名しています。

原理としてはエンジンが回っていて、その動力がクラッチを通して車輪に伝わります。

車が動くためには車輪を動かすだけの最低限のトルクがあればいいんです。

そして、1速ギアは一番ギア比が低いため車のタイヤを動かすトルクが低回転領域でも出せる。

ウソだろ?と思うならば、広くて誰もいない道で5速ギアでアイドリングで走ってみてください。もちろんいきなり5速は無理なので1速から順にあげ、時速20km程度(軽トラなら時速10キロくらい)で超スピード変速でギアをいれてクラッチを離してみましょう。そのあと、絶対にアクセルを踏まずアイドリングまで回転が落ちるのを待ちます。

そうすると車のギア比にもよりますが、1速ではアイドリングでクラッチを離してもエンストしない車が5速のアイドリングではガタガタいいながらエンジン回転数が落ち最終的にはエンストします。これがギアから発生するトルクの違いです。

そのため、ひどい渋滞(時速10キロ以下)はうるさくても無理やり1速で走ったほうが楽です。アクセルを離した際、低いギアではエンジンブレーキが強くかかりますが、それアクセルワークをしっかり学ぶことで対策できます。

また、最近はオートマ車が多いため追突防止のためにも停止・強い減速時のブレーキランプは点灯させておくのが良いです。

そしてだいたい20キロくらいまで渋滞のスピードが上がるようになってから2速に入れるとつらい渋滞がだいぶ楽になると思います。

なお、スープラのようにトルクがすごくありクラッチも重い車の場合はアイドリングの進むスピードをが速いことを考慮しながらそのタイミングを遅らせるようにすればいいのではないかと思います。

【応用編:坂道の上り】

「坂道の上りの渋滞」は少し難易度が上がります。

この場合は平地よりもわざと車間を取ります。なぜかというと、上り坂の上がり分が抵抗となってアイドリングのトルクではエンストもしくはエンジンに負担がかかるレベルの低回転で進むことになるため、進み過ぎない程度に弱くアクセルを踏む必要があるからです。アクセルを弱く踏んでいる状態はアイドリングよりも細かい調整がききにくいです。

 

【エアコンは冷暖房以外にも使える】

クラッチをつないだ後、アクセルを踏まないで坂道を登りたい場合は裏ワザとしてエアコンを使うという手があります。平地でやるとアイドリングが上がってクリープもどき状態の速度が上がってしまいますが、坂道ではのぼりの抵抗でトントンとなるためちょうどいい感じになります。逆に言えば、平地でゆっくりクリープもどきをやりたい場合はエアコンをOFFにする必要があります。エアコンがないと死ぬ可能性の高い夏場は車間を多めにとるのがおすすめです。

ただし、発進時は負担がかかるのでクラッチをつないでからONにすると楽です。

エアコンは冷暖房だけでなく、アイドリングを調整して速度調整にも使えるなにげに便利なアイテムだったりします。なお、同乗者に変人扱いされても責任は取りません。

あと、ボロい軽自動車のノンターボ限定ですが、力がなさすぎることを利用して1速のクリープもどきの状態でエアコンを使うことで負荷がかかりオートマのクリープよりゆっくりなスピードで巡行できます。

この状態は一切ブレーキを踏まなくてもものすごくゆっくり走るので車間を少し開けていてうまくいけば一切止まらずに行くことも可能です。使い方はいびつですが、トラックの排気ブレーキのイメージです。ただし、このクラスのポンコツでは上り坂のエアコンは即失速するのでおすすめはしません、ガタガタいって遅いだけです。

アイドリングは上がりますが、それ以上に持っていかれるパワーが多すぎることが原因です。

 

【トルコンはすごいパワー】

AT車が楽というのは、トルクコンバーターの構造上勝手に起こってしまうクリープ現象をうまく使っているんだなって気がする。ただ、その構造はやたら車間を詰めるためにあるものではない。やたら車間詰めてブレーキを短い間隔でパカパカやる人がいるが、それだけトルクがあるから抑えなくてはいけないということだ。

あれを目の前でやられると車間がやたら狭まり、不要な変速やブレーキ操作を強いられる。オートマですらクリープを使っていたのに急に前が詰まるのは結構やりにくいものがある。

とくに友人の父親がレクサスLS460に乗っているが、この排気量クラスになるとクリープがめちゃくちゃ強いという話を聞いているため結構な頻度でブレーキを踏まないといけないらしい。

【トルコンは便利。車間は取ろう】

逆に言えば、クリープの弱い車種は坂道発進で落ちる可能性だってあるわけだ。実際、家の1800ccティーダもかなり急坂のところでは落ちた経験がある。

トルク増幅効果を利用することでクラッチを踏まなくても進めるのは大きな進歩だ。流体を使ったクラッチは直接金属板をつなげるよりは滑らかになる。ただし、楽チンの意味を勘違いするとそれは大きな凶器となる。

そのため、オートマやマニュアルにかかわらず、渋滞時は意識してある程度車間を取っておかないと坂道発進で落ちたり追突された時の被害だって大きくなる

特に渋滞時は同じ風景が続き、周りの車の注意力も落ちやすい傾向にある。また、車間が短いということはそれだけ危機回避における時間も短いし、対応も難しくなる。

そのことを頭の中に入れて、渋滞を進むことを心がけていった方がよいのではないかと自分は思った次第です。

 

環境のせいってなんだろう。

やる気がない記事。勝手に思いついたことを言っているだけ。いじょう。

とりあえず文字が書きたいんで書いている感じです。

 

【よく言われる言葉だけど・・・】

「環境のせいにするなよ!自分の努力が足りないだけだろ?」みたいな話をする人たちがいる。これは、個人的には合っている側面もあれば、間違っている側面もある。

気を付けないといけないのは、「そもそも努力をできる環境なのか?」ということ自体は言い争っている両者には見えないことである。

 

【結果から、過程や環境、才能が見える】

あまりにもしょうもない話だが、「過程→結果」は見えないが「結果→過程」は見える。そこから見えた過程に対し、人々はツッコミを入れる。

このツッコミというのがなかなか残酷であり、言われている本人ではコントロールができない。そこには日々の体調、メンタルを影響する作用がある。そのツッコミをもとにくいしばって頑張れる人、逆に折れる人がいる。

 

【努力っていう言葉は本当に分かりにくい】

下手すると、毎日好きで勝手にやっていることがやたら評価されたり、嫌で嫌でしょうがないものを涙をこらえながらやっていても評価されない。

そんなことは腐るほどある。

だから、努力している・していないなんていうことを論じるのはあまり好きではないのだ。双方同士の基準を合わせるコストがだるすぎる。

 

【続けられるものはやり続けてみればいいんじゃない?】

ただ、個人的に思うのは「自分で続けられるのでは?と思うというものは自分に対して素直に続けたほうがいい」ということだ。続けるということにはお金や時間を費やす必要が出てくるわけだが、急に始めるというのは意外と準備に時間がかかったりすることが多い気がする。言い方を変えれば、習慣になっていればスタートのコストが低い。

それが努力かどうか?というのは分からない。だけど、自分にとって合う項目は必然的に自分の属性としてついてきやすいものだと思っている。

自分の属性としてついてきたものはそこから発展させやすいと思う。

 

【新しいことを学ぶのも一手】

自分もこの状態に陥っているのだが、新しいことを学べていない気がする。

要は、既存のもののなかで伸び悩んでいるものしかない感覚があるならいつもと違う感覚のものをさわりにいくといいのかもしれない。いろんな本を読む、いろんな体験をする、すべて動かないといけない。もちろん、そのコストを払う必要があるので壁をぶち破るというところでつまづくとつらいものがあるのだが、ふとしたきっかけで動ければまた強みが増えるのではないだろうか。

 

それぞれ適当な話をしたが、自分が言いたいことはこんな感じだ。

やれることからやればいいんじゃないんだろうかというハードルの低い心持ちからやっていったほうが自分にとって負担にならないからそこから強みを深められればいいなと思っている。以上

社会が定義する「無能さ」についての考察

発達障害当事者であるみなさん、そうではないみなさん。こんばんわ。

さて、頭の中でならいくらでもアクセルを踏んで調子コケるタイプの人はいるだろうか。自分は特にそうなのでよくわかる。

 

会社員として働くうえで「どこで無能/普通」としての判断をしているのだろうか?ということをコミュニケーション要素抜きで考えることをしてみた。

 

【キーワードはPDCA

本題に入る前に、PDCAとはなんですか?という話をしていかないと話の流れが分かりにくくなるので少しふれておこう。

PDCAは「Plan(計画)→Do(実行)→Check(評価)→Act(改善)」のことだ。

要は、「計画を立てて、やってみて、いいかどうか確認してダメならその部分を対策しましょうや」って話になるけど、発達障害の当事者がそのサイクル使うのって異常に脳の負担がでかい。

おそらく、仕事を覚える上でどうしてもこのサイクルを使わないといけないので、構造上社会的に死ぬ羽目になる。発達障害でない人はこのサイクルがないと仕事や普段の物事がやりにくいという感覚があるんじゃないのかなと最近思った。

【なぜ、仕事で死ぬんだろう】

まずね、当事者の場合は計画(P)の時点で死ぬ。

前頭葉の働きの関係上、時間感覚が取れないため工数の見積もりが取れない。その場合、実際にいきなり作業をやって「一か八か」の覚悟でやるしかないのだ。計画を立てている暇があるなら、さっさとやらないと仕事が進まないという非常にデンジャラスなことになる。

脳内が混乱しすぎていて目的を決めるとかそういうこと自体も怪しいパターンがあったりする。この混乱状態が悪化するとDoすらできなくなって何も進まないということも日常茶飯事だ。

毎回、このパターンにはまっている方がほとんどではないだろうか。

なお、試験勉強では得意分野の長期記憶・好奇心による没頭癖でこの計画が立てられない問題はまったく無視・カバーできてしまうので問題が露呈しない。

おそらく、仕事の時には出ないアドレナリンみたいなもので強引にねじ伏せているため脳内の覚醒レベルが低くないのだろう。そこで仕事でもできると思うと思ったほど脳が働かず試験をやっているときほど調子をこくことができなくなる。

なお、自閉症スペクトラム当事者の中には一分単位とかで計画を立てるのが好きなタイプもおり、そういう人たちはだいたいこの問題はクリアしている。(ただし、こちらのタイプはプライベートで問題を起こすタイプなのだが)

 

質の優劣はあるにせよ、最低限のPDCAはなんとか回せているんじゃないのかなということを感じた。ある程度のレーンがあれば組織内では少し暴れることができる。

これが「くだらないことでつまづかない」という地味だが強い武器だ。

 

【当事者が動きやすいフィールド】

さきほど述べたが、発達障害当事者はPDCAを回すことがかなり苦痛になってしまう脳内になっているのだ。

言い換えれば、「PDCAを回そうとすると、苦痛過ぎてやる気をなくす」状態に陥る。

では、堅苦しいPDCAを回さなくていい環境であれば強い人もいるのではないか?という発想にいきつく。その時の動きはどうなんだろうかということを考えていこう。

そう、脳内の覚醒レベルが低いのはドーパミンの受容レベルが低い・もともと分泌量が少ないなどの状態がある。

だいぶ自分が不勉強な部分があるので、どこまでが正しいのかは分からないが、コンサータメチルフェニデート塩酸塩)などで症状が緩和するという知見がある以上、PDCAを回すことが苦痛な状態ということを脳の生理作用によってつくられていることは間違いない。

もし、発達障害当事者が調子よくやれるとしたら「好きな分野」だ。その部分に関してはなぜかノイズが消えているのではないだろうか。自分にもその感覚があるのでよくわかる。他の人も好きな分野ではパワーを発揮しやすいが、当事者はもっとその差が著しいのでパフォーマンスの違いがそこに出てくる。

そして、嫌いなことはとことんやらない傾向にあるのでどんどんその得意分野が磨かれる傾向にある。当然ながらかける時間も長くなるのだ。

もちろん、そこに初期能力(≒習得時における努力の効率も含む)を考える必要はあるが長い時間をかけるため、平均以上になることは想定できる。

もちろん、下手の横好きで続けているがパフォーマンスがよろしくないため、評価されないものしか持っていない当事者はだいぶつらいのではないだろうか。

また、実際のパフォーマンスがすごくても「サラリーマン社会・ビジネス向き」であるかどうかは別物だ。

金玉さんの言葉を使えば「異能持ち」ということになるだろうか。

ツイートを引用させてもらおう。

【あとがき】

「社会で役に立つ・役に立たない」というフィルターの目が現代はすごく細かい時代になっているような気がしてならない。時代が進めば進むほど、フィルターの目が細かくなり、働ける人数がどんどん減っている未来があるんじゃないかなと個人的には考えているけど、そのことに同意する人はそんなにいない。

こんなくだらないことを考えている人はいないからだ。だが、こんなくだらないことでも考えなくてはいけない気がする。そのことによって分かることがあるかもしれないからだ。勝手に考えたことがこのブログの読者の知見として参考になるならばこれほど光栄なことはない。

雑用マルチタスク至上主義をこじらせるな!

【まえがき】

今日ですね、ツイッターをボケーっと見ていたんですよ僕。

そうしたらすごく同意できるツイートを見つけてしまった。

 

本当にこれは素晴らしい。

そこにもう少し自分のコメントを付け加えていきたい。

 

【日本人が陥りがちな働かせ方】

これですね、本音で言うとジェネラリスト至上主義をこじらせた末路というほかないと思っている。

「あれもこれもできる!そしてこんな素晴らしい成果を出している!」

組織においてはやたら強いんです、こういう人たちって。欠員を埋めるため、そのために成果を出すこともできる。そして、組織内での動き方がうまいから上司相手にしてもすごく体裁のいい状態を生み出せる。

ある意味、好き嫌いがないから強烈な強みもないけど欠点がないということを好む日本企業では非常に好まれる。

 

でも、気を付けないといけないのはジェネラリストばかりを扱いなれていると、今回の山中伸弥先生という「とびぬけたスペシャリスト」に雑用をさせてパフォーマンスを著しく落としていることに気が付いていないことだ。

さらにもっというと、能力の高い1人の人間だけでいろんな業務をさせることでコスト削減をしたつもりになっている部分があるのではないだろうか。それって、仕事の分配という観点から見れば最悪の部類ではないだろうか。

 

【山中先生のやるべきことはすごい細胞を作ることだ】

こんな当たり前のことに気づいていない、気づいていてもマルチタスクをやらせたがる人たちが多い。でもね、1日って24時間しかないんですよ。

そのうち2時間を研究以外の時間につぎ込むとどれだけ損するか、計算したことないんじゃないの?

もし、1か月単位で考えたとしたら2時間×30(日)=60時間だ。

1か月ずっとやりたくもねえし、得意でもない雑用をやらせたら研究の進度が2日遅れるのと同義だ。

ただ、研究なんて言うのは1年スパンどころではないものがあるのでその働き方を1年も続けていたら進捗や実験の計画が1か月近く遅れる計算になる。

そして、年月が長くなればなるほど分業されている他の国が先に成果を得る。そして本業に集中できないその間に追い抜かれているとかバカみたいな話が現実に起こっているわけだ。

そういうことをちっとも意識していないあたりダメ。

【好きなことに没頭しすぎることを嫌がる国?】

自分のツイッターのフォロワーであるPzさんにすごくよいコメントをいただいたのでそのことについても言及しよう。

そう、まさにその通りなんですよ。日本の環境には「好きで得意なことをとことんさせること」をやらせる状況がまるでできていない。「そんなことをしている暇があるなら将来にもっと役にたつことをしろ」とやかましい連中が多い。

 

そして、会社員になると「そんなことよりも役に立つことをしろ」ということをこじらせた状態となり、本業と雑用でバタバタして残業が長引いている状況が当たり前になっている。この状況が本当に生産効率のいい状態だろうか。少なくとも、疲弊している人が多くなっているあたり無理が生じていることくらいは認識できるはずだ。

ジェネラリストで使い勝手がいい人と、得意分野フルアクセルの人間の効率の違いをしっかり比較したほうがいいんじゃないだろうか。

「社会を貧しくさせる」ということを彼は言っているのだが、もうその領域はだいぶ手遅れになっている。若者の年収はシャレにならないほど落ちている。世間をなだめるライフハックを続け過ぎた結果、もう元に戻るのはだいぶつらい状態になってしまっている。

あと、この問題を解決すれば発達障害と認定されている人たちの8割くらいはだいぶ心が解放されるのはないかと思う。大真面目に。

なぜかって?くだらない雑用がそれぞれ得意分野に割り振られるからだ。

得意なことだけを全力でやれる人が増えれば、効率も上がるし絶対的な量も増えるはずなんだけど、それを実感する前に状況を作らせてもらえないから今のひどい状態を維持するしかないという悲しい現実になっている。

 

借金玉さんのブログを見て、発達障害の生き方を考えてみた。

 

【前書き】

ずいぶんと書くのが遅くなってしまった。

このクソみたいな先延ばし癖をなんとかしなければ人生は開かれない気がするのは間違いない。それはともかく、今回は題名の通り借金玉さんのブログより思ったことを書いていきたいと思う。

はてブでは言及しきれないので、こちらのほうで感想とかを言わせてもらおうと思う。

 若干、発達障害界隈の雰囲気を使って話しているため、変な感じになっていますがご承知おきを。

ピーキーな脳を振り回して社会で事故るぜ!】

特にこのエントリはなかなか刺さるものがある。あまりにも本質をよくついている。

これですね、「言語性優位で大学生活~就職活動までは世の中をある程度ぶん殴って生きてしまった人」にはだいぶクるものがあると思うんです。

中途半端に資格を取る能力が高かったり、成績もよかったり、マニアックな知識を得てできない部分を無理やりカバーして生きていくと本当にこんなことが起こる。

なまじ大学生という身分である以上、「うるせえ!我が道を行くんだ!」というスタンスでなんとかなってしまうと会社員としての社会適応で死ぬパターンだ。

運よく二次障害のない自分ですら、軽く死にかけるのだ。

僕は大学生の頃には自分が発達障害であることに気づいていました。通院もしていました。元来が躁鬱病を患っていたので、実のところを言えば大学時代からコンサータを飲むことは可能だったと思います。そして、そうしていればまた違う未来があったのかもしれません。しかし、これは本当に運が悪いことだと思うんですが、飲まなくても結構なんとかなってしまったんです。

もちろん、客観的に見れば高校は落第寸前の出席日数、人間関係はほぼ全てで破綻を繰り返しその度に別の場所に逃げる、定期的に躁鬱の波を繰り返し、薬物のオーバードーズと自殺未遂を繰り返す、明らかにダメです。でも、その破綻寸前の生活を僕はギリギリの線で乗り切ってしまいました。また、中途半端にテストの成績などは良かったため、問題が中々表面化しなかったのです。大学時代も薬物とアルコール、自殺未遂などは定期的にやらかしていましたが、「圧倒的に大学が楽しい」という事実が問題にフタをしてしまっていました。また、大学は圧倒的な規模があり人間関係を次から次へと乗り換えることが可能だったため、様々な問題を回避することが可能でした。

話を読むたびに血の匂いがただよう感じの黒さだ。むしろこの状況から立ち直るというのは容易な話ではなく、そのまま大学を中退して真っ逆さまに転落することだってありうる。

金玉さんの場合、大学生の時点で双極性障害躁うつ病)を患っているため血の色に染まったダークモードに突っ込んでいる。多分、そういった状態の悪さを加味してもいろいろパワフルに押し切れてしまう分、仕事能力とかそういった器用さはすごく高いと自分は思っている。

 

【会社員=定型発達の前提】

もう、本当に安定した組織が多くなっている以上この事態は避けられない。

だいたい「みんな同じ発想持っているよね?」みたいなことを武器にしてご立派な組織は動いている。

みんな能力が高いー退屈さと面白みのなさに強い

職場に入って一番先に思ったことは「こいつらみんな能力高え」ということでした。もちろん、能力の一番尖った部分で遅れを取る気はない、くらいの自負は僕にもありましたが、総合的な能力のバランスという面で僕は同期の中で圧倒的に劣っていたと思います。端的に言えば、能力のムラがあり過ぎました。

ホワイト企業の最も厄介な面はこれです。学歴はあって当たり前、その中で更に苛烈な選抜を潜り抜けてきた彼らは「出来て当たり前」なのです。もちろん、新卒にいきなり難度の高い仕事が回ってくることなどありません。しかし、「誰でも出来る仕事を効率よくこなす」という点で競い合った場合、能力ムラが大きく集中力にも難のある僕は圧倒的な遅れを取りました。

眠気。耐え難い眠気。僕があの職場にいた時の記憶の中で最も印象深いのがこれです。とにかく仕事に興味が持てず頭に入らない。そして、単調に続く事務作業の連続は、耐え難い眠気を僕に起こしました。また、僕は当時コンサータを入手することに成功しておらず、薬によるブーストをかけることも出来ませんでした。(後にこの症状はコンサータの投与で劇的な改善を見ることになるのですが、その時には全てが手遅れでした)

事務処理能力というのは残酷なジャンルです。素体スペックの差が隠しようもなく露呈します。何の面白みもなく、また仕事の全体像も見えないまま取り組む果てしない事務作業は、僕にとって最も適性のない仕事でした。しかし、ほぼ全ての同期は研修から配属初期に続くこのなんの面白みのない作業に難なく順応していきました。

当たり前です。僕のように中学校は半分以下の出席、高校は単位取得ギリギリのサボリ魔なんてバックボーンの人間はほとんどいなかったはずです。彼らは退屈さと面白みのなさを克服する訓練を果てしなく重ねてきた人間たちでした。その上、定型発達者でした。「こいつら本当に人間なのかよ」と思った記憶があります。しかし、彼らから見れば「人間ではない」のは僕の方だったでしょう。

僕は、人生のほとんどを「圧倒的に出遅れた後、後半で爆発的な加速をしてマクる」というパターンで乗り切って来ました。文句なしのスロースターターです。どこかで強烈な過集中がやってきて、全てをチャラにしてくれる。その繰り返しで生きてきました。中学も、高校も、入試も、大学も、就職活動も全てこのパターンでした。例えば、1年の期間で一定のタスクをクリアするのであれば、僕はその半分は浪費します。そして、誰もが「あいつはダメだ」と思った頃、強烈に加速してチギる。この繰り返しでした。そして、一番悪いことはそのパターンで新卒になるまではなんとかなってしまっていたことです。僕は「出遅れなんていつものこと。どうせ後半になればいつものアレがやってくる」という強い楽観を無意識のうちに持っていました。

しかし、仕事というのはそういうものではありません。特に、巨大なシステムの歯車として機能する事務職に於いては、そのようなやり方は一切通用しません。安定した出力を常時出し続けることこそが一番大事なのです。突出する必要はありません。安定感こそが最重要です。僕には危機感がまるで足りませんでした。そして、1年が経つ頃、僕はどこからどう見ても手遅れになっていました。

僕に仕事を教えようとする人間はおらず、また同情的に振舞う者もおらず、それでも職場は問題なく回っていました。一度掛け違えたボタンは時間の経過とともに加速度的に悪化し、二度と元に戻ることはありませんでした。全てが手遅れだったのです。

これね、本当に素晴らしい典型的ストーリーかつ、発達障害当事者が感じている感覚の言語化だと思うんですよ。特に注目してほしい部分は赤色で強調しています。

「お前に気に入られて勝手に赤色にされても困るんだけど」とか言われても知りません。はい。

本当に、当事者の武器って爆発的な加速でマクるっていうことだと思う。あくまでこれは発達障害界隈独特の言葉・感覚なのであまり一般的に通じる言葉ではない。

これを自分が使う言い方にすると「過集中ターボ」とかいう言葉になるのだが、要は概念としては全く同じなのだ。エンジンで言えば超高回転型で馬力を稼ぐような感じだ。

だが、会社員の業務というのは基本的に渋滞路とか一般道みたいなことが多いような感じだ。

当然、当事者というのはある意味ではすごい部分もあるのだろうが乗り心地は競技用車両みたいなのでは運転手の疲労ばかりがたまる上に本気で高回転を回そうとするとチームプレイを重視する上司というポリスメンが大変こうるさい。下手すると説教や厳重注意という赤切符を食らう羽目になる。

 

【結局は自分にとって”マシ”な選択肢を選ぶしかない】

金玉さんは「会社員として生きていくためには適応しろ」ということを言っている。

ただ、ある人の中にはそれがどうしてもできない発達障害当事者はどうやって生きていけばいいんだ?という深刻な質問が刺さってくると思うんですよ。

この中の言葉に少しヒントが隠されているような気がしたのだ。

発達障害の特性を強く有したまま人生を駆け抜けていける人も稀にいます。それはそれでとても素晴らしいことです。しかし、僕を失敗に導いたのは、正しくそのような発達障害者達の神話でした。自分は突出した能力を持っていて、それ一つで社会を駆け抜けていけるのか、それとも「出来損ない」として社会に順応していく努力をしないと生きていけないのか。僕は今、明確に後者が自分であると認識して生きています。

僕はジョブズではない。エジソンでもない。社会の中で稼いで生きていくためには、己を社会の中に適応できる形に変化させていくしかない。言うなれば、呑み込むべき事実はたったそれだけなんです。それさえ出来れば、後は具体的にどうするかという戦略を組み立て、トライアンドエラーを繰り返すだけのことです。それだけのことを理解してこの文章を書けるようになるまでに、取り返しのつかない時間が浪費されました。なにをどう悔いても、時間は戻ってきません。20代は終わってしまいました。

とはいえ、僕はまだ人生を諦める気はありません。神話的な発達障害者になることを諦めただけです。地道に愚直に積み上げることを今更ながら目指すだけです。

ただ、どうしても個人的に「発達障害の神話」という言い方がもやっとくるのでちょっとそこだけ言及させてほしい。

神話というと「ものすごい!だから簡単にまねできないから強引に適応してでもサラリーマンやれ!」みたいなところあると思うんですが、それはあくまで有名になった人の生き方が最終形になっただけなのでは?と思うんですよ。

どうしてもサラリーマンは無理だった・・・起業なんてできるわけないしほかの生き方を探そう・・・たまたま運よくこの形におさまれた・・・とか、特性を持っていたとしても問題なかった生き方だったみたいな運も含めての話なんですよ。

だからこそ、自分が言いたいのは「自分の発想・能力とかで総合的にできそうな・マシな生き方/稼ぎ方は何か?」ということを高校くらいから考えたほうがいいんじゃないかなって。もし、もう就職しちまったよ!ジーザス!ということであっても、常にそういったことは考えておくべきだということだ。

 

サラリーマンとかをやっているとどうしても精神が発狂してしまう!なら茨の道を覚悟してフリーのライターみたいな生き方をせざるを得ないとか結局は選択肢のどこを重点に置いて生活するか?に尽きる。最強のニートことphaさんみたいな生き方だって、結局は試行錯誤の末にあの形になっている。

phaさんも最初からニート(というか、半分くらいだるいめの自営業?)なわけじゃなくて4年間サラリーマンやって発狂しそうになってじゃあいろんな生き方をグダグダ模索してきたわけですよ。それがいきなりストレートでできていたとしたらあなたの人生って相当幸運をつかんでいる。だったらあとはそこに乗っかるだけ。

(ただし、当事者向けなので先延ばしとかそもそもチャンスに気づいていないとかあるのでそこだけは気を付けないといけないかな・・・)

 

平たく言えば借金玉さんは「サラリーマンがマシ」という結論に行きついて「自分の持っている特性上、組織内ではパワフルではないけどほかの選択肢があまりにもデンジャラスすぎるから曲がりなりにも適応しましょうや」ということになったわけだ。

【あとがき・余計な話】

よく説教臭い人が使う「努力をしている・していない」というのは、そもそも努力の仕方を分かっているか?というところになると思うんです。

得意/マシな分野なら分かる、そうでない部分は努力の仕方すら分からない。ただ、生き方が器用な人ってそのツボの範囲がやたら広いんですよ。その前提をそうでない人に強引にぶつけるからお互いに齟齬が起きる。そういうのってすごい悲しいですよ。

最終形なんてものはやってみないと分からない。だるいけどしょうがないやたら死ぬわけにもいかないし、折り合いをつけていかなくてはいけないのかな・・・と自分はしみじみ思った次第である。

技術が進み過ぎて、価値観の変化が間に合わない世の中になっている気がする

【物事の効率化=仕事が減る】

とくに製造業などは顕著だ。TVの取材などで見る、大手食品工場にある卵割りマシーンはめちゃくちゃ速い。千手観音でもこんな数は割れないんじゃないか?というレベルでバンバン割って工程に流している。

人間の本気の操作速度というのは機械にとってはチンタラやっているようなものだ。

でも実際の速度を自分は知らないので、割卵機専門メーカーのHPを参照してみた。

www.tsk-mc.jp

こんなコンサルティング会社があるのかよ・・・という感じだが、見てみるとなかなか興味深い。実際のスピードがあったので引用してみよう。

◆ 共和機械割卵機( 36000卵~39600個/分)高速割卵機
◆ QP割卵機(36000卵/時)高速割卵機

 1分間に36000個。1秒あたりに換算すれば600個だ。もはや人間でできていたらそいつは人間じゃない。当然、こんなところに人を雇えば赤字になるし衛生問題なども考えれば間違いなくデメリットしかない。

だが、工場に人はいる。人にできて機械にできないこと。それは仕組みを作ることという仕事があるからだ。しかし、その数もドンドン減るようになってくる。

技術を上げれば上げるほど、楽をする仕組みを作るための前提知識を習得できる人間の割合は減るからだ。

大学で前提の知識を習得したり、現場で長い修業を積まないと分からないことが多い。当然そこには教育コストもかかるし、面接などで技術を確実に習得できるのか?ということをしっかり見極めなければ途中でドロップアウトする場合も珍しくない。

だからこそ、仕組みを作る人間というのが相当高度化していかざるを得ず、いままでなんとかなっているレベルの人はついていけないのは必然の流れとなっていく。

ということは、「高度化しすぎて誰もが仕事に就けるわけではない」時代が来ることは想定しなくてはいけないのだ。

 

【働かなくてはいけないと思い込むことが前提の社会

本当は、どうせ仕事なんてなくなるんだから大半の人が「働くための仕事がない」といいながら遊んで暮らすみたいなのが一般的になるんじゃないかと思っていた。世の中の動きとしてはまだそんな感じはない。

ただ、現時点では完全に自動化できない部分があり、これからドンドン高度すぎるレベル以外の仕事がなくなっていく過渡期の時代となっている途中だから「就職する」ということがまだかろうじて可能な時代を保っているのだと思う。

あまりにも高度すぎると、今度は就職活動自体がなくなって遊んでいても暮らせる仕組みを作る必要がある。そこが「ベーシック・インカム」とかの考えにつながってくるのだ。

だが、今の技術の進歩はすごく早い。

車だって、最初は馬車だ。自動で動く機関を作らずに移動せざるを得なかった。

もっというなら、日本の江戸時代は東海道五十三次というものがあった。それは、あの気が狂うような距離を徒歩という一番原始的な移動方法で動いていたという事実があるからだ。籠や船があるじゃねえか!みたいな意見があるかもしれないが、そんなに速い速度で動かせるほどの技術はないし、交通としては便利ではなかった。その時代には不便な状態を改善するためにみんなで道などを整備してきたのだ。

 

その改善の積み重ねで、今は飛行機、船、新幹線の陸・海・空をすべてカバーできる。

移動するだけでなく、船に至っては世界一周をしても下手な家なんかよりも快適に過ごせる豪華客船なんてものもある。

どのくらい先なのかは分からないが、まじめにテレポートやワープの技術というのは具現化される可能性があるんじゃないのかな?という気はしている。

もしテレポート/ワープの技術が本当に具現化されたらトラック運転手をはじめ、運送業にはワープ装置にモノを通し、今まで使っていたトラックなんて過去の産物にはサヨナラしなくてはいけない。当然、そこで運転していた人たちもいらなくなるわけですよ。

ということは、技術が高度化しすぎるということは仕事がまともにみんな持てるなんて状態のは幻想なんですよ。テレポート装置を本気で作れる人・管理できる人だけがいれば十分ですよ。

でも、人口は急に減らないわけだ。そこで無理やり仕事を作ると圧倒的に無駄なことをやるしかない。そして、貨幣経済を急にやめるなんて話があれば別だが、そうでない可能性が高いので死なないためにはお金を稼いで食い物を買わなければいけないわけだ。

だが、物理的に仕事がなければ価値を生み出せないのでみんな貧困になっていく。

街はホームレスがあふれ、失業者が増えすぎてどんどん治安が悪くなる。

それを防ぐためにみんなが暮らせる仕組みを作ろうと考えているのがベーシック・インカムなのだが、「働かなくては食っていけない」と頑なにと考えると過当競争を前提に社会が動く羽目になる。

当然、そういう人の頭の中には「ベーシックインカムだけではなく、そのうえ労働収入がある前提でないと生活できないような物価設定まで値段を吊り上げなければいけない」という発想が浮かんでくると思うんですよ。

だって、「俺だけ働いているのに、なんでお前ら遊んでいるの?」みたいな感じになるだろうし、技術が高度化しすぎた状態での過当競争なんかに巻き込まれたくない人が増えている中での勝利者ってよっぽどの人だと思うからそんな低い意識の奴なんて叩き潰してやろうってなる人が多くなるんじゃないかなって。

【そもそも、僕たちの定年ってどういう状態なんだ?】

もう20年くらいは過渡期で仕事を作れるギリギリの状態を保てるとは思うけど、自分含め今の20代があと40年もまともに働けるだけの仕事が作れるほど世の中に改善できる場所があるんだろうかって気がしてならないんですよ。

今だって、就職できないやついっぱいいる時点でもう厳しい感じがする。

自分はその関係の背景知識も細かい業界情報なんかも全然わからないからあくまでデタラメの感覚で言っているだけなのだが、40年も先なんて時代が変わりすぎていて今までの常識を持っていたら間違いなくやっていけないと思うんだよね。

下手すれば年金引き延ばしの関係でばサラリーマンの定年が75歳になるんじゃないかって噂がある前提で考えれば、あと50年も同じ価値観を持ち続けるのかい?というのが正直ある。考えてみよう、今から50年前って1967年。当時、ロンドンに初めてのATMができた時代だ。

当然、世界初なので当時の日本になんかATMなんてあるわけがないんですよ。ちょっとお休みの日に金おろそうなんて発想持てるわけじゃないですか。だいたいクソめんどくさい窓口で銀行印が前提だ。

だからこそ、50年後までサラリーマンという職業があるかどうかなんて怪しいかもしれない。自分もそんなことを頭の片隅に思いながら生きていこうかなと考えた。

考えを書くということをやめてしまうわけにはいかない。

ろくな議題が思いつかない以前の話をしていきたい。ぶっちゃけ、今回の記事はあまり読むに値しないが、頭の中をアウトプットするという目的として動かしている。

 

最近、「ブログを書く」ということが著しく弱くなっている気がする。

短い文章だけでつぶやけるTwitterも前ほどつぶやいていない。

 

そう、おそらくインプット自体が昔に比べて少なくなっていることが原因ではないかと思う。要するに、学ぶことを怠ってしまっている。

非常にまずい。新しい情報がろくに入らない。考えることをやめたら終わりだ。

そこで本を読もうとするが、うまく読めない。おそらく集中力が続いていないのではないかと思う。

いろんなことに対して興味を持とうとしていたはずなのに、このざまだ。

自分であれだけ「好奇心を失ったものはバカだ」みたいなことを言っていたはずなのに、そんな存在にドンドンなりつつある。

 

心の原動力がかなり弱くなっているような気がする。完全に落ちてしまっているわけではないが、かろうじて現状維持をしているような感じが否めない。

 

ただただ焦りだけが自分を襲っているが、思っている以上に行動などはできていない。

考えることを辞めるということはマイノリティ雑貨店をやめることと同義だ。

考えたことをアウトプットするのがブログだというが、現状は開店休業中の白い板切れだ。

 

そして本日気が付いたことがある。

毎日、考えがまとまらないと思ったら一度はボーっとすることも大事なのではないだろうか。もしくは無心にペンやキーボードに手をかけてみる。これだけでもだいぶ違う。

物事を吐き出すためには心の余裕が必要になる。

 

そう、2年くらい前はもっと心に余裕があった気がする。だからこそ、いろんな本やブログを引用しながらいろんな文章をもっと書けていたんだと思う。

もちろん、本の習得効率が段違いであったことも間違いない。

ただし、自分の場合は医学的なうつ病の症状とかではない。

おそらく無気力な状態を続けたツケが今になってきたのではないかと思う。

 

だが、無意味だと思っていてもひたすら書き続けたり表現することは大事だ。

何もしていないときよりもだんだん活き活きしてきたような気がする。そう、無意味な文章を書き続けているとなぜか学ぶ意欲が出てきた。

もちろん当時の水準ではなく、今からすればかなり調子が良くなっている兆候が出ているのだ。いわば書くための準備運動を今まさに行っている。

 

こんな記事を書くんじゃない!という声もあるが、あまりにも脳内の文章を書く・生み出すということをあまりにもやらなすぎた。

起承転結もクソもないことは自覚している。頭の中があまりにも混沌としすぎていて非常によろしくない状態だ。このクソみたいな作業をもとにもう少し脳内を整頓できれば儲けものではないだろうか。

 

とりあえず、今回はこれで終了としよう。