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自動車、発達障害などを扱うブログです。最近はQMAにはまっています。

大人になっても要素が残っていること

発達障害の症状が大きくなるのは、割と小さいころではないだろうか。
当然、小さい頃っていうのは脳のシナプスがそんなにバイパス化しておらず、どこか不完全なつながりになってしまっているような状態だ。だから、子供は判断などがつかなかったりすることが多い。
だけど、その中でも繋がりが悪くなっている部分が多いのが発達障害の特性として出てくるわけだ。
もちろん、発達障害当事者は子供のころと大人のころではまったく同じな状態であることはまずありえない。
それはさまざまな経験があるため、脳が成長する過程に触れていき、少しずつではあるが伸びていくためだろう。ただ、定型発達の人ほどには脳内環境が整っていないために成長の凸凹が目立ちやすくなったり苦労が多くなってしまうのだろう。そして、当事者間でもその差が出ることは十分にありうる。
それがLDの要素だったり、ADHDの要素だったりは一人一人違うのでDSMによる杓子定規な判断というもの自体は治療としてはちょっとかけ離れているのではないだろうか。
DSM→簡単にいえば、どういう基準で診断すればいいのかというマニュアル書。

今の発達障害の診断のあとのフォロー状況。
「あなたはアスペルガーです。でも、うちには治療法はありません」
おおざっぱにいえば、実際の患者はこんな感じのことを言われているのではないだろうか。
下手すれば、あんたの気のせいとか言う馬鹿な医者もいるかもしれない。

発達医療界でいう治療が、風邪薬を飲んですぐに風邪が治った。ような感じのことが定義だとしたらそれはかなり無茶な話ではないだろうか。自動車の修理ですら一発じゃ原因分からないらしいのに、人間の脳みたいに機械以上にめんどくさい構造体がそう簡単にいくはずがないんだよ。
脳の特性に対して、どう考えてトレーニング・適切な投薬をするか?
LD単体の人だけじゃなく、何かを併発していることもある。もしかしたら昔にトラウマになるようなことだってあったかもしれない。
杓子定規な定義はある程度必要なのだが、それだけでやると今度はそれで説明できない部分ができてしまう。それがその人特有のことであるならばなおさらだ。

ちょっと脱線ぎみになったので戻ると、発達障害の要素はだれもが強弱はあるものの持っている。大人になって要素が残るというのはその人はちょっと要素が強かっただけだ。
脳は代償というものがあるらしいので、弱い部分は強い部分で補う効果が出る。
それが多様性として特徴にもなりうるし、その得意分野からできるようになった経験がまた成長へとつながっていく。ただ、問題なのはこの国が足並みを揃えたがらせること。それと人の目を気にしすぎて委縮(空気読み/世間体)してしまう環境がどうしても悪影響になりがちなことなんだよね。
特に、ここ最近は変人という枠にめちゃくちゃシビアになっている気がする。この弊害でかすぎる。
決して、発達障害の支援形態自体は退化していることがないことは確かだ。