マイノリティ雑貨店

自動車、発達障害などを扱うブログです。最近はQMAにはまっています。

平均的、常識的教育のうらがわ

日本の教育方式というのは基本的に減点方式だ。100点満点のうち、何問間違ったから56点みたいなことだ。もしこれが加点方式なら、満点というのはなくプラスアルファの数は青天井になる。言い換えればそれだけ褒める場所があるということだ。

では、なぜ減点式の教育を日本はさせているのだろうか? 推測ではあるが、学校は「ゼネラリスト」を育てたいのだろう。(もちろん、工業や農業の高校は別) ある程度平均的に育てるようにすれば、得意分野が目立ちはしないが常識的な人間になりやすいからだ。礼儀も学問もスポーツも・・・ということをやっておけば広い分野での対応力はつくので、日本的組織では使いやすいのだろう。

あんまり専門を突き詰めることが得意でない人にはこのやり方はあっている。好意的にいうなら「いろんなことをやりたい!」ということなので割と器用にこなせる人材になる。よく、事務の人が営業などに異動になったりすることがあるが、少し教育すればできるようになるのがこういった人たちの強みだ。
潰しがきく=教育費が安いメリット?

だけど、ゼネラリスト教育って合わない人にやらせると本当にまずい結果になると思う。
絶望的に一つの分野以外は苦手な人は嫌でもそれに合わせなければならない。
「おれ、なんで受験勉強なんかやらなきゃいけないんだろう・・・」という人はいっぱいいる。本当はやりたいことがあるのに、つまらないことを無理やりやらされるし、教師からしても「協調性のないやつ・・・」とある意味、本人にとっては理不尽なやりとりが続いていく。「休み時間や、もうとっくに死んだおっさんたちが多い歴史なんて嫌いだ・・・百科事典を読んでいるほうが好きだ・・・」なんて到底受け入れられない。
こんな状態をずっと続けていることははっきりいって時間の無駄以外の何物でもない。

そういう人への受け皿っていうのが本当にないと思うんだ。きっかけがあってみんなと同じことに介入できるようになった幸福な人もいる。だが、一定数マジョリティの価値観が合わなすぎるやつがいる。
もちろん、学校だけじゃなく企業としてもそういったことに取り組んでいる組合などはごく少数だ。
ゼロだ!と言い切ることはしないが、ほとんど知名度がないといってもいい。
だいぶネットで叩かれているが、「ひきこもり大学」、「株式会社NEET」などは個人的に面白い試みではないかと思う。ぶっちゃけ、この少数派の軍団の中でマジョリティの意見(批判)が役に立つとは思えない。
だって、彼らにはレールから外れた経験がないからある意味そういった世界を知らないためだ。
これは断言してもいい。 

常識的、平均的な意見だけが割とはびこってはいる日本。だけどそこにマイノリティからの意見をぶつけてみる場がほしい。これは前提なんだけど「肩書なしの個人」で話し合えることじゃないと意味がない。
「社会人やってないだろ?お前に何がわかる」みたいなことをいうような奴はそこでは消えろっていうことだ。
だって、これって会議で発言を封じられた新人社員と一緒じゃねえか!そんなのただの独壇場だよ。
だからこそ今はそういった場を作るために頑張っている人たちがいる。

すぐに認められるとは思わない。だけど、政治(もしくは公の機関でもいい)に任せていてもまるで変わる様子がないから国民そのものがなんらかの形で増やしていかなければならない。もしくは何かできない理由が既存の機関にはある。だから、動けるところが日本には必要なのだ。予算とかはまちがいなくしょぼいけど、やろうとする気持ちならタダだ。あとは、うまくつながってくれればいいんだけど・・・