マイノリティ雑貨店

自動車、発達障害などを扱うブログです。最近はQMAにはまっています。

幸せや美しさって何があるんだろう?

お金で買えない幸せと買える幸せ。 親子のふれあいはお金があるにこしたことはない。いい環境を提供してあげられるからだ。ただ、環境は一定の水準があれば問題ないはずだ。具体的な数値を出すのはなんともいえないが、発展途上国でも幸せな国がある以上意外とハードルは高くないと思いたい。
だが、親がいなければ触れ合うことはできない。ゲームを買ってあげることはできるが、放置すればそのままだ。パチンコに遊びに行っている場合も同様だ。
もちろん、ゲームを否定しているわけではない。子供同士の触れ合いには同じ話題で盛り上がることが必要だったりするためだ。時代の流れとしての風潮があるわけだ。
毎日ひどい虐待のあるエリートサラリーマンの家庭と、一生懸命に向き合ってくれるそれなりの家庭のどちらがいいのだろうか?

美しさ。ビルの夜景はとても輝いている。だけど、なぜ人は天体観測をしに田舎へ行くことがあるのだろうか?
森林浴やきれいな川、貴重な生物。ビルの夜景の美しさは電気をいっぱい使い、人を疲れさせる(=残業)。だが、自然の美しさは資源を使わない。だけど、今は電気がないとシステムが動かない。
平安時代なんて、電気なんか無いから早く寝た。これは農民みたいな貧困層ではなく、権力をふるっている貴族のレベルの話だ。
これって自然界の摂理にかなり従順していたのではないだろうか。
今なんか、貧困層の人ですら電気の使わない生活は不可能だ。焚き火だけで生活するというのなら、話は別だが。

人は便利になるため、いろんなものを作ってきたと思う。だけど、長い目で考えればすごく疲れてしまうようなことになっている。最新のものにふれ過ぎて、自然本来のものにふれる時間が思った以上にないのかもしれない。なお、この話は「自然に触れろ」とは言わないのでご注意を。

電気のない時代の貴族は不幸だったのだろうか?そんなことはないと思いたい。朝から和歌を詠んで楽しみ、蹴鞠で仲間と戯れていた。まあ、ちょっと政治が面倒かな?と思うくらいだ。
農民は税金とか律令制で苦しんでいた時代だからちょっと考えからは外そう・・・

働くのも幸せになるかもしれないし、遊ぶのもいいかもしれない。ぼーっとしているだけでも、人によって感じ方は違う。この時間がないと嫌だと思う人もいるが、ぼーっとするのは時間の無駄だと思う人もいて動くことを優先する人もいるだろう。一つ行動をとっても、いろんな感じ方が思った以上にある。

だけど、1つの価値観だけがすべての人に押し付けられているのは健全ではない。それは何かというと独裁とかそういうものになるんじゃないだろうか。「働くやつは罪人だ」という価値観があったとしたら、それがすべての国民に賛成できる意見かどうかとしたら、おそらくそんなことはないと思う。さすがに、自分も罪人までとは感じない。生きやすいということを考えるのはきりがないのだろう・・・