マイノリティ雑貨店

自動車、発達障害などを扱うブログです。最近はQMAにはまっています。

ヤンキーっぽさってなんだろう

最近、精神科医の斎藤環氏が「ヤンキー論」を展開している。自分もたまにそういうことを考えたりしているのだが、雰囲気的にヤンキー要素(DQNと言い換えることも可能)を持っている人とそうでない人がいるというのはよく分かる。じゃあ、その雰囲気の違いというのはどういうところから来ているのだろうか。

もちろん、暴行行為をするような気が荒い人たちからチャラい人、真面目そうだけど実は気質が結構ヤンキー気味 などの境界線がある。もちろん、この境界線はあいまいであり、キッパリ区切るということは難しい。分かりにくいというのであれば、自閉症スペクトラムのグラフを見ていただければ理解しやすい。

そのヤンキーっぽさをちょっと表した斎藤氏のTwitterを少し引用しよう。
非ヤンキーはヤンキーを語る

ヤンキーについて語る「文化人っぽいひとたち」が全員、「ヤンキー」的なるものを恐れているとまでは思わないが、自身とほぼ対極の位相、文化集団として見ているのは確かだろうし、そこに含まれる体育会系のアゲと気合いノリとプチ・ナショナリズムな感性への違和感と警戒心は、だいたい中学、高校くらいから醸成されていくと思う。斎藤環のヤンキー文化論及びヤンキーへの旺盛な言及は、「ヤンキー」的なるものの広がりとそこに取り込まれまいとする防衛機制としてもあるのかな?などと思ったり。



特に「体育会系のアゲと気合ノリとプチ・ナショナリズムな感性への違和感と警戒心」は核心になると思う。割と自分もこういった感覚は結構強く感じている。これは学歴が高いとか社会で高い地位についているかどうかはまったく関係なく、その人個人が影響されてきた環境に依存しているのだ。小学校のころから始まり、中学・高校の体育会系(精神的な)部活でおおまかなヤンキー要素のベースができる。そして、大学での就職活動でその傾向が強まる人とそうでない人がかなり別れてくるのじゃないだろうか?
国内の就職活動は、体育会系の人が優遇される傾向にある。これは面接や仕事をする上で内部の人が共感しやすい要素が多いからということ。分析や理論よりも経験、実務を重視するので遂行力だけでいうなら優位になる。
ある意味、ごり押しでなんとかなるのだろうけど、臭いものにふたをしている傾向があるのはいただけない。
企業の問題とかはだいたいその蓋が割れてしまい被害が大きくなってから対処をするので悲惨な処理をせざるをえなくなる。
ごり押しがいつまで通用する世の中になるかな?