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マイノリティ雑貨店

社会に関すること、自動車、発達障害などを扱うブログです。社会ブログなのか、車ブログなのかよく分からなくなってきました。

自閉症スペクトラムの個人差が激しいわけ?

発達障害

視線認知と自閉症(ASD)の特性(1)-社会的学習が苦手なわけ-
視線認知と自閉症の特性(2)-共同注視ができないことの意味するもの-

ここ最近、発達障害関係の話をしていないうえ、あまり学んでいない気がする。それゆえ、もう少し学ぶということ、考えていくことをこれからやっていこうと思う。おそらく、全く知らない人よりは分かっているつもりだったが、意外と説明する時などに明らかに足りていない部分などを補えていない。
素人の独学など相当に浅いということを実感した。さて、こんな余談で時間を終わらせたいわけじゃない。

ASD当事者の狸穴猫(まみあなねこ)さんが自分の体験の違和感をもとに考察をしているのだが、書籍と実際の当事者の剥離が若干あるような気がしてならないのはどこかあった。


だが、社会性の障害にしろコミュニケーションの障害にしろ想像力の障害にしろ幅が大きい。
そこそこ社会生活を送れてしまう人からかなり社会生活がしんどそうな人まで非常にさまざまである。

特性にあった環境、充分な配慮があればいい…ともいわれるが、それだけではどうも説明がつくようなつかないような…。
正直なところ私はこのあたり納得していなかった。

社会性やコミュニケーションの面ではどうも「学習」の問題が大きいような気がしてならない。
もちろん「学習」といっても学校の勉強ではない。「人間」「社会」についての学習である。



そこそこ社会生活を送れるような人は、ニッチな分野で成功した場合や独特の処世術を用いながら理解のある人と仕事ができている場合がある。

ただ、自閉度が高い人というのは、小手先の処世術でなんとかなるレベルではなく、まじめな発言でもかなり誤解を受けてしまうことが多いし、苦労することもかなりある。もしかしたら、あまりに頓着せず、周りだけが疲弊していくパターンもあるわけだ。

誤解しないでほしいのだが、自閉度が比較的低めだから苦労は少ないとは思えない。

そして、自閉症スペクトラムの人々に問題が生じているのは、非言語的な要素の学習ではないだろうかということである。

基本的に、人間は視線を使って学ぶことが予想以上に多いのだが自閉症スペクトラムの要素があるとその視線学習機能が劣っている、もしくはほとんど機能しないのではないかということになる。
俗にいう「見て覚える」ということだ。見て覚えられる人と、そうでない人にはこういったところの機能の差が格段に違うのである。

さて、では自閉症者の情報認知・処理システムはどうなっているのか?

自閉症者は人の顔・視線に反応しにくいということはよく知られた話である。
目が合わないという現象は早期発見の手がかりともなっている特徴でもあるし、人の顔や表情を見分けるのが苦手というのもよくある現象だ(私もそのひとりである)。

「読む目・読まれる目」にもこういった記載がある。

"線方向への注意シフトと社会的ではない方向刺激である矢印による注意シフトを比較したところ、定型発達児では矢印に比べて視線手がかりによる注意シフトが相対的に強かったのに対し、自閉症児ではこのような傾向は見られなかった。遠藤利彦 2005 読む目・読まれる目―視線理解の進化と発達の心理学 p.210より引用"



自閉症の疑いのテストとして「うちの子、視線が合わないわね」というのがよく親御さんの間で心配事の種としては有名な話だ。では、健常者は視線から何を学んでいるのかをちょっと話していこう。

定型発達者では多くの乳児が母親の顔に視線を向ける。
見つめる、見つめられるといったことから「安心」を得たり、「見つめる人」の存在を認めたりするわけだが、視線というのは見つめ合うだけではない。

他者の視線が向けられた方向を感知し素早くその先にある物を見ることは「共同注視」というが、
それによって、子どもはさまざまな情報を得ている。
いまいち、共同注視の話が見えてこないので、資料を引っ張ってみましょう。いかんせん、中途半端に学んでいるせいで理解がごちゃごちゃになっている。これはまずい。

心の理論

じつは乳児は「他人の表情や視線を理解する能力」を持って産まれて来ます。
乳児は、相手の目に注目する能力によって、生後6ヶ月くらいになると目そのものでなく、その目がどこを見つめているのか、つまり視線を感知できるようになります。乳児を見つめていて視線が合うと、なかなか乳児は視線をそらしませんね。で、そのまま視線を合わせ続けると、 乳児と自分のあいだに、瞬時に強い関係が生じます。

   生後9ヶ月になると、視線を交わす関係は変ぼうします。
   視線を交わしていた大人が他へ視線を移すと、敏感にそれに反応します。
   移った視線の先に自分も視線を移動させるようになります。
   この視線の共有の事を「共同注視」といいます。

これは、乳児が他人は何に関心を持っているのか、理解する能力を身につけた証拠なのです。相手の関心がどこにあるのか、また、指差しを通じて自分の関心を相手に示す事も可能になる。



そうすると、自閉症スペクトラム領域の人たちは「生まれつき視線理解・表情理解」の分野が弱いということになるわけです。狸穴猫さんはこれを「対人情報システム/視線情報処理システム」と呼んでいるようだ。

だから、その弱い部分を使えないとなると学び方を別な方法でやることになる。
それが汎用学習システムということになるということらしい。一言で言うなら、学校の勉強みたいなやり方で人生を学んでいる。有体に言うなら覚えることが多すぎるテストみたいなものではないだろうか。

対人特異的入力・処理システム(赤系の色の部分)をAシステムとし汎用入力・処理システム(青系の色の部分)をBシステムとしておこう。
定型児がAシステムを介して学習をするもの自閉児はどうやって理解するか?
これについても「読む目・読まれる目/遠藤利彦」にこういった記述がある。

"また、自閉症児でも、就学以後、言語も含めた知的能力がある程度伴ってくると、かなりのところ、自発的な視線追従を特にターゲットがない状況でもなしうるようになるが、その時期は一般の子どもあるいは発達障害児がそうした知的水準に到達するはるか以前からそれが可能であることを考えるときわめて遅く、彼らの共同注意がSAMなどの特化した認知的基盤によって支えられているというよりは、一般的な繰り返し等による学習効果なのではないかとも指摘されている(Leekam et al. 1998)、本書第7章において別府も。トラヴィスとシグマン(Travis & Sigman 2001)を引きながら、たとえ自閉症児が外形的には一見、健常児とほぼ同様に共同注意にからむ諸行動を成立させているように見えても、実のところ、それは”汎用型学習ツール”(general purpose learning tools)なるものによってかろうじて支えられているのではないかと論じている。"
遠藤利彦 2005 読む目・読まれる目―視線理解の進化と発達の心理学 p.49-50より引用



なんか小難しいことを言っているようだが、要するに自閉症スペクトラムの人は視線学習システムを全く得ないわけではない。

だけど、知的水準から考えればはるかに遅いだろう。

だからそれまでは繰り返しの試行錯誤などでやっていいこととそうでないことを学ぶので非効率な社会性の育成になってしまうわけだ。
さっき、自分が言った「覚えることの多すぎる試験」なのだ。弁護士の国家資格も真っ青だ。
だから記憶力を補完するために意識的な領域が強くなっている。高学歴が意外と多かったり、特定の知識に特化しているタイプが増えているのはメカニズムから考えばありうる話なのだ。

そしてまた、自閉症児者ではAシステムの不具合により、他者の意図・感情についての誤入力が発生しやすく、それが修正されないまま学習が積み重なることが誤認知、誤信念が発生しやすさにつながるのではないだろうか。



人とコミュニケーションすることは感情の情報量が数えられないほど多い。だからエラーを放置し続けるとそれが大量に積み重なってしまうよ!ということだ。これは個人の力だけで対処するのはちょっとばかり無理なんじゃないだろうか。割と問題は深刻だ。感覚過敏の人だともっと問題が複雑になるので、今回は放置しておこう。

自閉症者でコミュニケーションについての学習が不足しやすいことは上記で述べたとおりである。
(中略)
定型者の場合はこのあたり圧倒的に有利ではあるが、「視線理解」が阻害されるような状況におかれることで学習不足は生じるし、学習機会:すなわち対人接触の頻度の多寡、接触対象の多様性などといったものによってコミュニケーション能力に大きな差が生じうることは十分に考えられる。

上のような要因が、自閉症児者のコミュニケーション力の差異を生じさせるのだろう。



視線理解が阻害されるというのは、コミュニケーションの機会を奪われていることとほとんど一緒のことと考えても問題ない。いじめや虐待などはコミュニケーションを奪う代表的なものであり、のちのちの人格育成に大きな影響を与える。これは自閉症スペクトラムの人だけでなく、健常者でもなりうることだ。杉山登志郎医師も「第四の発達障害」として提唱している。

ただ、本当に発達に偏りがある場合と、虐待などによって人格に影響が出た場合ではおそらく問題の出方が違う。人間として大事にされるというアドバンテージが前者にはあるからだ。もちろん、問題行動などによる失跡で自信を失うことは多いだろうが、虐待の領域までには至らないと思う。

発達障害の人が生きやすくなる要素はある意味「運」もあると思う。特に日本はみんなと同じことを求められるため、余計その傾向に拍車がかかる。支援を受けられた人は非常に幸運だと感じたほうがいいかもしれない。(悪化していたら、申し訳ないが・・・)