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マイノリティ雑貨店

社会に関すること、自動車、発達障害などを扱うブログです。社会ブログなのか、車ブログなのかよく分からなくなってきました。

自己責任の精神は権力者に都合がいい

社畜だけでなく、小学校のいじめや主婦の生活環境にまではびこる自己責任論。
本来、自己責任というのは明らかに行動を行うものに非がある場合にのみ適用されなければならないことなのだ。ひとことでいうなら自業自得だ!と言われることだ。

例えば、霧吹きから消毒用アルコールを噴霧したところにライターの火を近づける。消毒用アルコールに引火して小さな火炎放射機のようになって火傷してしまった!というようなことを「分かっていてわざとやること」などがそれに該当する。

もちろん、消毒用アルコールが引火しやすいという性質を知らない場合は、危険性を学んでいないので別の意味で怖いということになってしまうのだが・・・。

ドラマで有名なのは金八先生が「僕は死にましぇーん!」とか言いながらトラックの前に飛び出すのもそうだ。
さて、あまり脱線してしまうと本題に移れなくなってしまう。

では、なぜ明らかに当事者に非がないことでも「自己責任」ということを言われ続けるのか?

採用枠に限りのある就職活動に新卒で入れなかったということも「努力不足」で片づけられる。10人しか枠がないのに、11人いると1人は弾きださなければならない。
おふざけの算数問題でいうなら、「3つの林檎を4人に分けるにはどうすればいい?→1人を殺せば解決だよね☆」ということと実質言っていることは変わらない。

「殺害」が「ほかの受験者を押しのける」に変化しただけ。

確かに能力が高いほうが生き残りやすい。だが、あまりにも「自己責任」の範囲が能力の良しあしだけで語れる領域ではなくなっているので、しっかり考えないといけない。

<この国はどこへ行こうとしているのか>
 ◇自己責任論は捨てよ−−信田さよ子さん(67)


さて、信田さよ子臨床心理士の記事をベースに話を考えていこう。弱い人に本気で向かい合っている人の知識はろくに商品のない雑貨店より心強い。

信田さんの目に映る現在の東京、そして日本の社会は、この断崖のような「転落するかもしれない境目が、すぐ足もとにある社会」だという。どういうことなのか。
たとえば以前なら、DVで苦しむ女性にはアパートを借りて生活保護を受給させ、その後仕事を見つけて自立する脱出モデルをためらいなく示すことができた。しかし今は違う。
「昨日まで主婦で、特に資格もない女性が就ける仕事といえば、時給の低いアルバイトやパートか、せいぜい契約社員。これでは独立した生活はできない。

逆にどんなに怒鳴られても殴られても、優良企業に勤める夫の妻でいれば子どもを大学にやれる。相談を重ねたのに、そんな理由で『やっぱり私が我慢します』と家に戻ってしまうケースがある。進むのも残るのも地獄。どちらの地獄の方がましか。この選択しか残っていない」



個人的な感想を述べれば、資格があっても日本の会社は女性を冷遇する傾向にある。だから、有能であっても子供が産まれそうであれば就職の確率は格段に落ちる。

マタハラなんていうチンパンジーなみのモラルの行動を「社会人」という日本社会においてクラスの高いものが平気で行う背景がある。むしろ、この行動はチンパンジーに対して失礼なくらいかもしれない。
DVは、夫側に「ダメなお前を教育してやるよ。社会的地位の高い俺様がな!」という心理が働いている。

詳しくは「「ふつう」の基準と脅迫じみた訓告」を見てもらえれば理解してもらえるのではないか。

結婚してDVされるのは「あなたの性格が悪いから」みたいなことを言われる国。

もちろん、その中には明らかに妻側が悪いものもある。一般的にモラルハラスメントというのは加害者側に自覚がないことが多いので、知らない間にエスカレートしていく。
今回の記事では、「自己責任」について話をしていくのでDVの話をここで打ち切る。

DVだけではない。新卒採用のタイミングを逃すと、正社員への道は極端に険しくなる。就職しても周りに同調できないと「コミュニケーション能力がない」とはじき出される。
「再チャレンジ」と言われるけれど、一度つまずくと元のコースに戻れない。「経済的な『安定』を得るには夫の暴力に耐えたり、自分を偽って無理をしたりするリスクや犠牲を受け入れなくてはならない。それが嫌なら即転落。極めて許容度の低い社会になりつつあるように思えてなりません」



日本の自己責任という中身の真髄ではないだろうか。これができないのは自己責任。能力のあるものだけが残れる弱肉強食の世界だ!と言わんばかりの話だ。

ただ、実質仕事とやっているのはどのメーカーも割と横並びのものが多かったりする。(岡野工業などのニッチな企業を除く)
しかも、コミュニケーション能力は実態のないものであり、受ける側にとってはどういうことがコミュニケーションなのかいまいち理解しにくい構造である。
だいたいは「上の人が気に入るかどうか」だけなので、いつも同じやり方が正しいとは限らないのもすごく厄介だ。

信田さんは、許容度がどんどん低くなる理由をこう推測する。
「経済がグローバル化して市場原理を絶対視する新自由主義が広がった。政治的には小泉純一郎政権時代の構造改革が社会の隅々まで行き渡ったのでしょう。都政も国政と同様の発想で進められてきました。
石原慎太郎元知事は、子どものいじめについて『自分で戦ったらいい。ファイティングスピリットがなければ一生どこへ行ってもいじめられる』と発言するなど『落ちこぼれるのは自己責任』といった考え方を隠さなかった。五輪招致はその延長上にあると思います。
バラ色の未来を見せて、強さへの憧れを満足させてくれる。私自身も開催が決まった瞬間は盛り上がってしまったけれど、よく考えれば本当に解決すべき課題からは目をそらされてしまう」



ニュースはいつも、華やかな事実ばかりを報道する。一部の人間はその裏の事情である欠点に気がつくが、多くの人は華やかな事実ばかりを受け入れる。もしかしたら自分もその一員かもしれない。だけど、一部の人間が主張している貴重な事実というのはなかなか出回ることが少ない。だから、本などを読むことで学ぶのだ。
もしくは人から話を聞いたりすることが有力なのだ。

そのまま引用すると長くなってしまうので、自分なりに内容を咀嚼すると、現在の20~30代の人は追いつめられると「自分のせいだ」と思い込むことが多いそうだ。そうなると、当事者は目の前のことにしか意識がいかなくなり、外からの有益な情報を逃してしまうため、余計に自分を責めてしまう。

失敗は「自分のせい」だと思い込んでいる人は悪い権力者にとって非常に都合がいいわけだ。本当は経営者が悪くてもすべてクラスが下のもののせいにできる。ちょっと前でいうなら小沢一郎の「私じゃないです、秘書がやったんだ!」みたいなことが平気でまかり通るのだ。

東日本大震災や福島第1原発事故であれだけの被害が出ても、アベノミクスを享受できなくても、政治や社会への強い怒りがわかないのはそのため。それは実は考えること、内省を放棄することと同じなのです」

 “わな”の副作用はまだある。「皆『自分のせい』とは言いながら、心のどこかに鬱屈した感情がたまる。そうなると欲しくなるのが敵。中国や韓国に対する攻撃的な論調がもてはやされるのは分かりやすい敵だからです。ヘイトスピーチや、自分より弱い者へのいじめ、バッシングが起こるのは、自己責任論のまん延と表裏一体です」



「自分がひどい目に逢っているのに、お前は何でそんなにのんびりしているんだ!」というようなことだ。本人は短期的にすっきりするかもしれないが、実は長期的に見れば自分の首を絞めていることなのだ。鬱憤を相手にぶつけていくうちに自分にも帰ってきてジワジワと生きにくい社会が出来上がっていく。
どうにもできない感情というのが彼らの中にはある。ヘイトスピーチというのは悪い意味でのストレス排出弁なのだ・・・。

信田氏は自己責任をうたう背景には現在の60代の人が過ごしてきた環境が特殊であるということを述べている。

「私のように高度成長期に社会に出た60代以上の親は、『やる気があれば何でもできる』といった精神論をいまだに持ち続けている。今は自立のハードルが高く、やる気だけではどうにもならないのに、親世代、特に男性にはそれが分からない。なぜなら彼らはほぼ100%が就職も結婚もでき、男としての誇りを満足させることができたからです。でもそんな希望に満ちた時代は戦後の20〜30年間だけ。歴史的にも世界的にもまれなことなのです」



アントニオ猪木の丸パクリみたいになっているが、本当に1960年代は高度成長期時代で働けば働くほど儲かる時代だった。

母に聞いたところ、「本当に仕事がありまくったから誰でも会社には入れた。大企業ですら人が足りない時代で普通に中卒の人が意外といた。高卒が主で、大卒なんてほとんどいなかった。ただ、あんまり法律もしっかり決まっていなくて土曜が休みのところなんてなかった。日曜がせいぜい休みくらいだった」ということらしい。

ただ、その背景には働いた分だけのキャッシュバックがあったわけだ。

労働基準法は本当は1954年にできていたのだが、まったく守っているところなんてないんじゃないかということみたいだ。

だいぶ過労していた人もいたんじゃないかと思うのだが、当時の話なので詳細は知らない。自由でお金がある時代ではあったのだが、働くことに比重が重かったのだろう。その代わり、空いた時間で金を使いまくるのがスタイルとして成り立っていた。

ただ、今は働かされる割にリターンは少ない。それどころか、働く場所がないなんてこともある。またうまく正社員になったとしても、企業の違法労働に目をつぶらないと生活ができなくなるリスクすらある。

どちらにしてもワーカーホリックなのは変わらない。ただ、現在はインフラが整備されているのでそこの部分はマシなのかもしれない。
当時の人は根性があった!みたいなことをおっしゃる方もいるかもしれない。
そんなあなたにあげる言葉。根性で何とかなる時代とは違います!出世枠も一杯あっただろうし、そもそも正社員の仕事の質がだいぶ違う。もうね、ちきりん女史も似たようなことをどっかで言ってたような気がするんだよね。

今回の都知事選の候補者を見てみよう。16人中、60歳以上は実に13人。30代はたった1人だ。
今の日本を築き、「やる気があれば何でもできる」と信じている親世代と重なる。女性は一人もいない。信田さんは「なぜいろいろな立場の人が出てこないのでしょう」とため息をつく。候補者の「幅の狭さ」は、信田さんが感じるこの社会の「度量の狭さ」をそのまま反映しているようだ。



ちなみに30代で立候補したのはLiverty社長の家入一真さんだ。結果的に落選してしまったが、60代の高齢軍団の中に志をもって前に立ったのは個人的に高い評価をしたい。もちろん、この行動力を起こそうとしている若い世代はいっぱいいると思う。だが、あまりにも60代などの人に疎外されている背景はないだろうか?

「(前略)安倍晋三首相は『女性の力の活用』を掲げていますが、能力のある、恵まれた女性の活用だけに偏っていませんか。それでは不十分。シングルマザーが就職できるようにし、崖から転落しかかった女性が生きていけるようにしてほしい」



意外と盲点になってしまうシングルマザーの活用。決して少なくはない数だとは思うので、全員が活用できるようになれば子供の教育もしっかりできるだろうし、本人自身もすごく豊かになれると思う。

もちろん、考え方によってはDV夫からも逃げる準備につながるかもしれない。この経済効果は小さいはずがない。
だけど、目先の利益にしか興味がないとこういう発想はまずやりたがらない。さぁ、権力者のみなさんはどうやって国民を復活させてくれるかな?
まぁ、まだ時間はかかりそうだ・・・