マイノリティ雑貨店

自動車、発達障害などを扱うブログです。最近はQMAにはまっています。

自己肯定感を軽視する人たちの思考を考えてみる。

石橋尋志さんのツイートで考えさせられることがあったので、これから書いていきたいと思う。

 

親たちは何を望んでいるのか? だいたいは、正社員の就労で長く続けることだと思う。

確かに、仕事と「自己肯定感」は直結のスキルとしてはつながらない。だから、「意味がない」といいたいのだろう。変な話、そんなことしてる暇があるなら作業能力を上げろというような風にしか聞こえない。

なぜ、そういうことをいうのだろうか。就職が不景気のため、彼らは経済的な焦りをプレッシャーにしてしまうのかもしれない。「うちにそんな金はない!」とばかりに。

当事者は確実にそのプレッシャーに襲われる。無茶しながらも、社会適応しようとする。だけど、企業はそこまでついてきてくれるわけではない。

精神的発達がバランスよくなっていれば、たぶん彼らは勝手に社会に適応するでしょう。(最近は貧困や募集人数の影響で、それでもだめなパターンがある・・・)

そして、当事者は仕事ができるパターンの人もいれば、ぜんぜんだめな人もいる。ただ、技能を無視して考えても職場をやめてしまったり、それ以前に面接で全滅ということもある。

自己肯定感を作る中には「ソフトスキル」などの要素が必要じゃないかなと自分は考えている。

 


フォーラム「発達障害者の就労」を東京で開催しました | NHK厚生文化事業団

 

ここにスキルについての具体的な説明を引用しよう。(カギカッコの改変あり)

「ハードスキル」とは、パソコンの技術など、仕事を進める上で直接必要となるスキルです。

 

「ソフトスキル」とは、業務には直接関係しないものの、職場の人間関係を円滑に進める上で必要なコミュニケーション上のスキルです。発達障害のある人は、ハードスキルよりもソフトスキルの面で困難が多く、上司や同僚との関係が悪くなって退職してしまうケースが多いといいます。

ライフスキル」とは「朝決まった時間に起きる」「身だしなみを整える」「洗濯・ゴミ出しをする」など、生きていく上での基本となるスキルのことです。発達障害のある人の場合、こういったスキルが確立していないことが多く、仕事を続けることが難しくなってしまう場合があります。梅永さんは学齢期からの家庭でのサポートが必要だと強調しました。

 

なんで、こんな支援になっているのか? どちらかというと日本は専門スキルが重要というよりは、「キチンと見える」ことを重視する社会だからだろう。本当のことを言うと、体裁や組織度といった意味ではいいのだけど、柔軟性はあんまりないやり方だ。

体裁とかはともかく、これらは就職のための「道具」として使わざるを得ない状態なのだ。たぶん、葛飾北斎が今の時代に生まれてたら間違いなくゴミ屋敷の住人として訴えられていただろう。(部屋のゴミ多すぎて、93回の引越し。片付けはしないし、その中でそのまま仕事をする!)

江戸時代はライフスキル・ソフトスキルのハードルとかが現代より低かったのだろうな。今とはまた違った不便がありそうだけど、それに関しては言及しない。

 

経済的理由もあるのだが、もうひとつは「周りの目」も焦らせる原因じゃないかと考える。母親同士の会話で息子や娘の話はよくされる。そのときに、子供が不適応を起こしていたりすると、肩身が非常に狭くなる。別の言い方でいえば世間体が悪い。

自分の家庭は相手の家庭とは違うということは、わかっているんだけど、焦ってしまう・隣の芝生は青い。なんだかんだ深層心理に出てしまうのかな?

 

だから、自己肯定感は無視しているわけじゃないんだけど、優先順位は確実に下げられているんじゃないかというのが自分の意見だ。

これはほんの一例だし、運のよさもだいぶ絡んでいるのだけど参考にしていただきたい。たぶん、ビル・ゲイツエジソンなどの遠い例えとは種類は違う。

 


人気ブロガー・村上福之が語る「非コミュ」エンジニアが独立するための知恵と勇気 | bizocean incore

 

プログラミングに興味を持ったきっかけは、ファミコンなんですよ。14800円のファミリーベーシックを買って自分でゲームを作れば、ゲーム3本分以下の値段で永遠にゲームができると思ったんです。近くの本屋でプログラミングの本を見て、「目コピ(見て記憶すること)」でプログラムを覚えましたね。でも、がんばって『ポートピア連続殺人事件』みたいなゲームを作っても、自分が作ったゲームで遊ぶのは案外、楽しくないものなんですよね(笑)。

中学に入ってからはMSXというパソコンを買ってプログラミングをするようになった。雑誌の『MSX-FAN』を愛読してたんですけど、プログラミングの投稿コーナーが盛り上がってたんです。投稿している人は僕と同じように中学生とか高校生ばかりで、ラジオのハガキ職人に近いものがあった。僕もプログラミングを投稿するようになって無駄に切磋琢磨してましたね(笑)。何度か掲載されて、1本3万円くらいの原稿料までもらえた。でも、お金以上に自分が作ったプログラミングが世に知られる喜びが大きかったんです。当時の僕は学校ではネクラな少年だったので、ひっそり雑誌に載っていることが、唯一の居場所みたいな感じだったんです。

 

 クレイジーワークス社長の村上さんの生い立ち兼、創業物語みたいなことなのだが、やはりこの元になっているのは「プログラミングという趣味から生まれた自己肯定感」じゃないかと思うんですよ。特に注目してもらいたいのは赤色の部分。

 

学校では居場所がなくても、ほかの場所で活躍できることを日本では非常に作りにくい。これは本当にもったいないし、いじめの温床に滞在し続けることになって精神衛生上も最悪。まぁ、文科省のお役人には到底わからない話だろうけどね。

すぐに役に立つとか、そういう価値観を今は重視しすぎてなんでも切り捨てるみたいなことになっている。合理化しすぎて、実はなにか見落としちゃってるんですよ。