マイノリティ雑貨店

自動車、発達障害などを扱うブログです。最近はQMAにはまっています。

遠州弁でコミュニケーション能力を語るに。

最近、「コミュニケーション能力」とか「コミュ力」がばか重視されてるだよね。
だもんでさ、学生はなんか外交的にふるまったり、取り繕ったりしてるだよ。
空気を読め? そんなこと言われたって、文字じゃないんだから無理だら。周りの意見に合わせて行動するって、ただの真似じゃん。

こないだな、雪見さんのブログを見てただよ。「雪見、月見、花見」ってブログ。
もうね、ばかすごいだよ。 ツッコミが的確で細かく記してあるもんだからどこまでも問題をしっかり追及できている。これは本を書けるレベルだな。

それでな、特にこの記事はすごいなと思ったもんでちょっと考えていきたいと思う。

「コミュニケーション能力」を要求するディスコミュニケーション社会

何だい、ディスコミュニケーションって? 最初は思っただん、読んでくと意味がわかる。
雪見さんはね、こんなことを最初に言ってるだよ。

一般的には「難しいことができる」のが「能力が高い」と言われますから、「コミュニケーション能力が高い」というのは「コミュニケーションが難しい相手とコミュニケーションをとれること」と解釈するのが自然なところと思います。

では「コミュニケーションが難しい相手」というのはどんな相手でしょうか。

ここは色んな意見があるかもしれませんが、私は最大の因子は「自分と共通項が少ない人」だと思っています。分かりやすく言えば、「自分に似てない人」ですね


今回は遠州弁だもんでさ、この抜粋が違和感あるのは気にしんでや。
ようするに、「オタクとDQN」 「弁護士とドラマー」のようにまるで共通項を見出せんものをいうだよね。
もしくはまるで逆の方向性のやつだ。

また、同じ日本人の中でも、価値観や考え方、あるいは興味のある分野や職業、趣味などが一致している方が、細かいところを省いても伝わることも多く、話の阿吽の呼吸が合う、つまりコミュニケーションが取りやすいと言えると思います。

結婚なんかでも「価値観の一致」が相手を選ぶ上で非常に大きい地位を占めているのは、やっぱり「コミュニケーションのストレスが少ない(コミュニケーションが簡単な)相手」が良いということなんだと思います。

このように、いろんな場合にかなり普遍的に当てはまる条件と思われますので、「自分と似た人」が「コミュニケーションを取るのが簡単な相手」で、「自分と似てない人」が「コミュニケーションを取るのが難しい相手」であると、十分に一般化してもいい条件と思います。


まぁ、これはそのとおりだと思う。いきなり弁護士とパートのおばちゃんがガチで法律の話せよったって無理だよ。っていうのと一緒でさ、共通する話題とかから人は繋がりやすいだよね。お見合いだってそうだら?
「XXさんは何がご趣味ですか?」 「へぇー、私と気が合いますねー」っていうのは同じところに共感したという要素だもんね。

だもんで、コミュニケーション能力が高いということは「おばちゃんに法律教えてやる」ことができる人じゃないけ?もちろん、相手も嫌にならない前提だに?
だもんでさ、この知識の差だけでなんとかならない要素が必要だ。

それに続いて雪見さんは「何らかの団体活動の経験などがよくアピールポイントとして面接で話されること多いけど、これアピールじゃないじゃん!」と言ってるだよね。
もちろん、サークルとかそういうのって言うのは趣味が合う衆らが集まるのは当然だもんで同一化する傾向になるのは当然だよ。

当然この集団の中に居る人たちは「自分に似た人たち」ばかりです。つまり結局「コミュニケーションを取るのが簡単な相手」ばかりです。

言ってみれば、サークルや団体活動で多くの仲間ができたー、というのをアピールポイントにするのは、「九九ができるから私は数学が得意だと思います」と主張してるようなものなのです。「簡単な課題を多くこなした経験」を「能力が高い」根拠にしてしまっているのです。

そんなものどんなに声高に主張しても、「コミュニケーション能力」が高い理由には成り得ないはずですよね


発達障害で例えるなら「障害の知識をもっていますから適切に扱うことができると思います」と一緒だな。
その人によって対応変えなきゃいかんのに同じ対応でマニュアル化してるようなやつはダメだってことになるだよ。

恐ろしいのは企業側も「こういうサークル活動などをしているのはコミュニケーション能力が高い根拠になる」と思っていそうだということです。(中略)「簡単な課題」にもかかわらず「高評価」になるということであれば、当然みなその「簡単な課題」をこなそうとし始めます。「難しい課題」にチャレンジすることはなくなります。
例えばテニスなんかの対戦型のスポーツを想像してみて下さい。相手の強さに関係なく今までの試合での勝利数だけが強さの評価の対象になるのであれば、みな弱い相手ばかりに戦いを挑んで勝利数を稼ぐことでしょう。 こうなると、有利なのはどんな人でしょうか。
それは「多くの人と似ている人」です。

要するにすっごく「普通の人」「多数派の人」「平凡な人」です。
多くの人と同じような考えを持って、同じような物を持って、同じようなテレビや映画や本を読んで、同じようなところに行く、そんな人です。そんな人なら、「多くの人と共通基盤が持てている」ので、「コミュニケーションを取る難易度が低い」のです。だから、「多くの相手とコミュニケーションを取ってる」かのようなアピールができることになります。現状の「コミュニケーション能力」戦線の評価方法では、こんな「普通の人」こそが有利になって、エキセントリックな「個性的な人」は不利になると言えるでしょう。


そりゃ、ばか面倒なことやらんでええならさ簡単な方を選ぶら。だもんで、気に入られるように異常なまでの同調をするだよね。ただ、日本の会社はそれをやらせすぎるって言うのが問題なんだよな。同じことしかしないようにすれば、はみ出ることだけは避けられるからなぁ。
なんだ、私たちとまったく違う材扱えませんって言ってるだけってこんだら?営業職の人間しかいなかったらそいつしか扱えんってことになる。専門職向きのやつが来ても「うちにはちょっと・・・」とかいうんでしょ?
どたまくれてやろうか?
最後、ちーっと過激なこと言ったが、あまりにも同じ人材を求めすぎだということは同じだよ。
生きにくいやつっていうのはあいつらが勝手に合わないとか言ってるだけのワガママに付き合わされてる。ばか迷惑だよ。

(わざと書いてるもんで、記事が読みにくいならわるいやぁ。)