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自動車、発達障害などを扱うブログです。最近はQMAにはまっています。

「個人主義」と「集団主義」における協力の意味

あまりよいタイトルのネーミングができなかったが、個人主義のタイプと集団主義のタイプの協力の意味は違うよ。ということを説明していきたい。

なお、今回は「リスクに背を向ける日本人」という本を引用しながらやっていこうと思う。対談形式の本なので割と読みやすい本だ。山岸俊男氏と、メアリー・C・ブリントン氏が日本の社会について語っていく。
2人はとても仲がよく、お互いを「俊男」「メアリー」と呼んでいる。(ただし、日本的文章の感覚上、表記は山岸さんになっている。)

「雪見、月見、花見」の管理人、雪見さんの「日本人って案外「個人主義」な気がする」のエントリには非常にお世話になっている。

本当のチームワークって実は内向的?」と「お互いを信用しない日本の人々」にも個人主義のことについて書いた。
ただし、まだこの問題は解決していない部分があったので、どんどん掘り進めていこうかと思う。


まず、解決していない疑問を「内向的?」の記事のところから持ってこよう。

もっと頑張りなさいか。無理でしょ!雪見さんが「日本は個人主義だ!」というのもわかる。ただし、本来の個人主義と言ってもこんなに利己的な感じではないはずだ。


実を言うとですね、雪見さんが主張する「個人主義」ってこんなに利己的なものだっけ?と思ったんです。
別に間違っているとかそういうことを言いたいわけではなく、個人主義の人が割と人と協力するシーンが結構あることを考えるとどうにも違和感を感じてしまったのも事実なんですよ。

企業の創業者には結構「自分の意見を主張する」タイプの個人主義の人が多いけど、その人たちがまったく人と協力したがらないかというとまったくそんなことはない。むしろ、自分の弱点をほかのパートナーと補い合っているという事例のほうがよっぽど多い。

たとえば、未来工業の山田昭男と清水昭八(正確には創業者じゃないけど、技術面の貢献が大きいため)ソニーなら井深大盛田昭夫、ホンダなら本田宗一郎と藤沢武雄の組み合わせみたいな感じだ。
社長という職業だけあって、人より一歩進んでいるようなことをしている必要がある。大きなことをするには弱点を抱えていると大変不利な状況になってしまうのだ。

日本は基本的には「監視社会」であり、お互いが悪いことをしないようにピリピリさせながら秩序を保っている国である。

だから、犯罪率とかも非常に少なく、治安がとてもいい。だがその横で社会の流動性がなくなったり、空気に押しつぶされるものも出てくるというデメリットがあるのはみなさんもご存じだろう。社会の風潮みたいなことに対し劣等感を感じている人が今は非常に多い。

本の内容に少しふれていきましょう。
じゃ、結果的にどっちが利己的なのか?という疑問を解いてくれる場所を見つけた。

メアリー:難しいですね。常識的に考えれば、まわりの人たちの関係を気にする人たちのほうが、ほかの人たちと協力する傾向が強いはずですね。だけど、私は山岸さんの実験をよく知っていて、匿名状態での社会的ジレンマ・ゲームでは日本人よりアメリカ人のほうが協力的に行動することを知っています。アメリカ人よりも日本人のほうがまわりの人たちに受け入れられているかどうかを気にする傾向が強いとすると、そうした傾向の強い人たちのほうが利己的に行動するだろうということになります。どちらが正しいんでしょうね?

山岸:(前略)まわりの目を気にする傾向が強い人たちはまわりから監視されている状態では協力するんだけど、実験室で完全な匿名性を保障されると自分の利益を優先する行動をとりやすくなる。
(長いため中略)独立的(independent)な傾向が強い人のほうがまわりの目を気にしている人よりも、実は、ほかの人と協力することのたいせつさを理解していたんです。(後略)



略ばっかりで申し訳ないんだけど、本当に長いんですよこれ。

よく、ネットの匿名で暴言を言う人がいるのだが、確実にこのことが関係しているのではないかと思う。ネットだけではなく、会社という閉鎖空間でもこの現象を起こしうる条件になる。

たぶん、ブラック上司の場合、「匿名」が「権力」に代用されている。日本にはなんだかんだその風潮になじめる人が多いため、当たり前の感覚になってしまうのかもしれない。
会社でも監視されている場合は表面上、協調性があって協力してくれるように見えるのが集団主義だ。
だから、日本人の組織でみんな協調性があると感じている場合、その空間は間違いなく監視による政治がおこなわれているということを感じたほうがいいと思う。