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自動車、発達障害などを扱うブログです。最近はQMAにはまっています。

他人を罵らずにいられない人=最終手段としての暴言

北条かやさんがTwitterでこんなことを言っていた。

他人を罵らずにいられない人たちというのは、一様に「語彙が乏しい」ですよね。何というか…語彙が乏しいとしか言いようのない淋しさを感じます。



他人を罵る理由が「語彙が乏しい」ということを、彼女は感じ取っているようだ。だが、その暴言のパワーの源をうまく定めることができていないように感じる。

せっかくなので、語彙が少ないことから暴言にいたるまでを勝手に分析してみようと思う。

言葉というのは、物事を伝えるために生まれたものだ。文字や音声(発声)などを使い表現する。また、アーティストはそれを彫刻や絵画、映像、図面、歌、感情などで表すことができる才能を持っている人のことだと思う。言い換えれば、非言語でものを伝えることのできる人たちだ。

ただ、伝える能力は高いので言語的表現に直しても大変高い水準を保つことができる。経営者の一部には「生きることは芸術だ」という人がいるが、会社経営や自分のスキルを使って自己表現をしているのだ。

変な話、ワタミの経営だって一種の芸術になるのだろう。ただし、世の中に決して出してはいけないアートだったのだ。表現をすることは大事なのだが、人権をふみにじるようなことがあればそれはつぶされるべきだ。

喋ることができない自閉症の子供は飛び跳ねたり、ものを並べたりするなど、独特の行動を取ることがある。
名前は忘れてしまったのだが、とある特殊学級教諭のブログで「水溜りの中に入り、手を天にかざしていた」というような記述を見かけた。真意はわからないが、少なくとも何かを感じようとすることは感じられるのではないか。

それは気温かもしれないし、日光を浴びたいのかもしれない。何にしろ、表現をしたいのは人間すべてに共通することなのだろう。

だいぶ脱線したようなので本筋に戻りましょう。語彙が少ないということはどういうことなのか。すなわち、言葉を使える範囲が小さいということと同義だと思う。

もし、言葉で上手に言い表すことができないならば、非言語を使わなければならないのだが、それにも失敗すると最後の手段としての表現、「暴力」に行き着く。
デモとか自殺というのは相手に訴えかけてはいたものの、どうしようもなくなったときの表現方法なのだ。
ただし、ネットでは物理的な暴力が通用しない。もしやったとしたら、キーボードクラッシャーみたいに自分の目の前のパソコンやスマホがぶっ壊れるだけだ。

(ウイルスをばらまくという手もあるが、国民の平均技術力を考えるとあまり一般的ではない)

物理的な暴力の通じない世界ではどうなるのか。言葉をうまく表現できないが、感情は高ぶっている。そこで発散するために行われるのが「暴言」という最終手段にシフトするのだろう。

もしくは、犯罪予告で無差別殺人というようなことに発展していく。もちろん、後者のようなケースになると状況がもっと深刻なため、今回は除外したい。
ツイッターの「死ね」発言は早い話、本人も何を言いたいのかわからなくなっている可能性があるわけだ。

だから、「死ね」と暴言を吐く前になんかブログなりノートなりに表現をすることで昇華することがいいと個人的には思う。

語彙は使うレベルにもよるが書いているうちにある程度はついてくる。生まれもってのセンスもあるので、読みやすいかどうかは抜きにして、独自の表現はできるようになると思う。

死ねということで溜飲を下げられるのかもしれないが、それは言った側、言われた側にとっても健全な状態ではないことを今回は述べておきたい。