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自動車、発達障害などを扱うブログです。最近はQMAにはまっています。

日本は知的好奇心を抑え込む要素が多い国

学校にしろ、仕事にしろ、「余分なことを考えるな」で一蹴しているやつがあまりに多すぎるような気がしていかんなと思ったんですよ。

15000RTくらいされた次のツイートがすごくいいことを言っている。

 

 

こういう事案にムカつくことだけは誰でもできてしまうので、どうしてこういうことになるのかを考えていこう。

受験勉強や事務作業のように地道なことをコツコツやることが得意な人は、それが別に面白いものでなくてもとりあえずはこなせてしまう。自分のようなタイプからすればすごいなと思えてしまうタイプの人だ。

おそらく、今回いわれている教育ママみたいな人も元々はそんな感じの人のような気がする。

脇目もふらずに目標に突き進むため、事務処理能力もものすごく高い。仕事や勉強ではとても重宝する能力といっても過言ではない。

別に好きではないんだけど「やらなくちゃいけないからやる」みたいなことでも高いパフォーマンスを維持できるのだ。

それゆえ、「私も苦痛だけど頑張った!!あの子にもできるはずよ!」という人が陥りやすい事案なのだ。好奇心を潰してしまうがゆえにパフォーマンスをガタ落ちさせることに気がついていない。

 

言い方を変えれば、「苦しい修行みたいな形でやること」に慣れている。だからこそわが子が好奇心に対し忠実にかつ楽しくやらせることに抵抗がある。

なぜかといえば自分が今まで生きてきた人生の中ではふざけているように見え、心配になって子供を抑圧気味にしてしまう。

 

これをすごくうまく説明した記事があるので、引用させていただこう。

kuraharu.hatenablog.com

まだ僕が中学生のころ、母は「努力っていうのは忍耐だ。嫌いなことを真正面から受け止めて、突破するために打ち込むことだ姉を見なさい。あれが努力よ」と口を酸っぱくしていった。そして、「くらはのは努力とは言わない。あなたは好きなことのために嫌なことをしているのを努力だと思っているだけ」と毎回続けた。

異論はあると思うが、僕は母の努力論に同意している。そして、僕は努力ができず、姉は努力ができる。これも事実だ。

 

姉は本物の努力家だった。中学高校と毎日学校から帰ってきたらずっと勉強をしていた。特に苦手な数学を「もうやだ。辞めたい」といいながら、時には「もう大学なんか行きたくない」と弱音を吐きながら。僕はそんな姉を見てただただ感心するだけだった。そして姉の努力は実を結ぶ。いい大学に行き、いい企業に就職した。姉はいうのだ「努力がようやく実を結んだ」と。

 

僕には姉の真似は絶対できない。目標があったとしても嫌なことを進んでやるなんてできやしない。今まで何度も姉の真似をしようとしてみたが、その都度ついつい抜け道を探してしまう。

タイトルにある通り、僕は努力を生まれつき持っている能力=才能だと思っている。とくに根拠があるわけじゃない。ただ、姉の真似を僕ができなかったというだけの理由だ。これは単なる言い訳だろうし、子供っぽい意見と映るかもしれない。でも、実際努力をしたくてもできない人ってたくさんいると思う。

 

だからどうしても、努力を強制される社会が好きになれない。努力をしなければ成功しない。お前が底辺なのは努力をしなかったからだ。こういう言葉は、努力の才能がある人から発される暴力的な言葉だと感じてしまう。

 

今の社会はどんどん抜け道が増えてきた。これからもっと増えていくだろう。そうなっていけば、母のいうような努力をしなくても幸せに生きていける人は増えていくのだろうと期待している。

 

追記

別に僕は努力できないのを言い訳にしてるつもりはない。抜け道を探して生きてきたことに後悔はしてないし。ただ、そういう生き方に否定的な人が多いのかな、と思うだけだ。

 

堀江くらはさんのお母さんの言葉をよく読んでもらうと分かるのだが、くらはさんのような好奇心ベースの動き方を否定している。好奇心を抑圧させ、義務的な感じで処理するように求めているように見える。もっというなら、「そうでなければ認めない」という圧力さえ感じる。

自分自身の意見としてはどちらを否定する、肯定するの話ではなくて「生まれ持った特性」だと思っている。それで、日本の人たちというのはくらはさんのお姉さんやお母さんみたいな人が一般的に社会的に求められているような気がするのだ。

一応、言っておきますがくらはさんの感性はすごく好きです。

 

言い方を変えれば、社会適応能力がすごく高い人たちは興味のあること以外に対してパフォーマンスがガタ落ちする人のことがあまり良くわかっていないのだ

逆に好奇心で動く人というのは強い分野に関して突き詰めれば伸びるタイプなのだが社会的な教育上のフォーマットにはまっていないためついつい切り捨てられがちだし、過小評価は避けられない。その要素で日本が失っている部分があるんじゃないかと自分は危惧しているが、それが具体的に何なのかはまだつかめていない。

 

 

東大を出たソフトウェアエンジニアの日野瑛太郎さんは受験をするとき、ゲーム感覚で問題を解いていったそうだ。これがどういうことだか分かるだろうか?

要するに、苦しんでやっていないということなのだ。日本人は往々にして苦しんでやることに対して必要以上に高い評価をしがちなのでそのことに関しては警告を鳴らしておこう。

 

日本は技術の国でありながら、自然科学などに対する関心が先進国でもかなり低いことは有名だ。ただ、理科の成績を見る限り決して悪いわけではない。これはなぜかというと好きではないけど、進学のために手段として適応した結果じゃないかと思う。

 

自然科学に触れるということは、好奇心の原動力によって「これはなんだ?」と観察・実験・考察することだ。

もうちょっと簡単な言葉で言い換えるなら「面白そうだからやってみよう」に通じてくる。子供のうちはこれがほぼ原動力といってもいいくらいだ。

大人でもこういう発想で動いている人はいるが、一般的な日本の社会ではあんまり評価されにくい傾向だ。大学教授とかなら結構いるんだけど、会社員としてはあんまり多いように感じたことはない。

どっちかというと会社員でこういうタイプは変人扱いされることが普通かもしれない。報連相と「とにかくやってみよう」との相性が悪すぎる!

文化とかの影響もあるから単純に批判するのも野暮なのだが、面白そうだからやる?とんでもない!っていう線引きの閾値が低すぎる人がこの国には多すぎないだろうか。

クレヨンしんちゃんの昔のOPに「ダメダメ」とか言いまくっている歌があるが、あれは案外皮肉には聞こえてこないんだよね。

 

すごく社会性が高く、みんなからの評価が高い人を見ると活気にあふれているし落ち着いている。俺ガイルでいうなら葉山隼人みたいなタイプ。

でも、個人的に言わせてもらうとあんまり純粋な好奇心の強さを感じる人種ではないなということ。スクールカースト的な発想からすると綺麗にレールに乗れたタイプなので日本独特の雰囲気と相性がかなりよい。無理もしていないのが良くわかる。

そう、あくまで自然に振舞っているだけなので良い意味で肩の力が抜けているんだ。

リーダーとして普通にやっていけそうだし、彼らの運営するチームに入っていれば癖のあるやつもうまく扱えると思う。バランス感覚と全体を見回すブレーキ力は本当にすごい人なんだなっていうことはわかる。

 

ただ、好奇心を感じにくい人ではあるものの、彼らは勉強していないわけじゃない。むしろ、必要な知識ということに関しては平均以上の習得率を持っている。好奇心がないというよりはすごく実用的な知識を好むので「お前、なんでそんなこと知ってるんだ?」ということを話題にすることはあんまりないのだ。

自分みたいなタイプはどっちかというと、変な知識や発想はあるものの,トレードオフとしてほかに持っているべき能力のバランスを欠いてしまっているのでいびつな感じになってしまうのだ。

素で生きていたらバランスを保てたのか、変なところに特化してしまったのかで評価がここまで分かれてしまうのだから恐ろしい話だ。

 

この国のヤンキー層は割と会社員、経営者としてバリバリやっていくタイプが多い気がする。それはなぜかというと、若い頃に好奇心を発揮できていることが大きいからだ。

言い方を変えれば「ヤンチャしてた」ということだが、オタク層が楽しむことに比べると割と周りからのバッシングが少ないため、その分楽しむハードルが下がる。

周りのバッシングのイメージがつきにくいと思うのでそのことを説明しよう。

例えば、図鑑を見たり何かを集めたり、関連の本で知識をつける。だが、そのような言語系の好奇心というのはマニアックすぎることが多いので、あまり共有できない側面があるんですよ。

一般の人から見ればそういったことの知識を持っていることは少ないため、ガチで語られてもうまく対応できないなんてことが普通にあったりする。

アニメオタクは昔に比べると割と許容される要素が増えてきたとは思う。それはなぜかというともともとはオタク層だけが楽しんでいたところに一般層が入り込む余地ができたのだ。

言い方を変えれば、日本という国は本や資料を読む、考え込むなどの言語系の好奇心に関してそれほど寛容な国ではないではない気がするのだ。それなら、なにかはっちゃけちゃおうぜ!みたいなことの方がわかりやすくて好きな人が多い。

ここ最近、内田樹先生が「反知性主義」という本を上梓されたがそういったところにつながる要素があるのではないかと思う。