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自動車、発達障害などを扱うブログです。最近はQMAにはまっています。

努力だけを問われる不健全な状態

2つのブログを引用してみる。

過剰な努力をしたくないから、努力が報われすぎる社会になってほしくない
「努力が報われる社会」は「諦めの先」にあると思った。

やや邪道な気もするが、いろんな意見を増やすことで考え方が広くなっていくという点はいいかもしれない。

体調わる子さんのブログから。

「生まれながらに環境に恵まれている人が勝ち組だ」っていう今の日本。
おいらが思う、勝ち組その1。子供の頃から「東大」「京大」「早稲田」「慶応」あたりが都市伝説ではなく現実に存在している大学だと認識していた人。
目指せた人。 「医大」もかな。 これを目指せた人って結構勝ち組だと思うんだ。
存在しているのは知っていても、別世界すぎて「ん?」「は?」「無理無理何それw」みたいな人は結構多い。

勝ち組その2。

家がお金持ちの人。 「衣食足りて礼節を知る」ってよく言う。家が裕福な子って勉強も出来て、性格もよかったりする。スネ夫みたいなイジワルはいない(話す内容がハイソで鼻につく人はいるけど)。
そういう子はちゃんと就職、ちゃんと結婚、ちゃんと家庭を持って、なんか「ちゃんと」するんだ、「ちゃんと」ね。



まあ、一言で言うなら「金持ちは教育に投資ができるから子供を満足させられる。そして、満足した子供は余裕をもった性格になれる。」
もちろん、これは傾向なのですべての子供に当てはまるわけではないが、なにも教育を受けない場合よりも優秀になる可能性は増えるんじゃないだろうか。当然、経済の関係上、体験できることも多くなるので人生の経験値は一般の経済水準の国民よりも高くなる。

じゃあ、貧乏な人はどうなるのって? さっきとは逆で余裕のない生活を強いられるのだ。
もちろん、当事者は病院での取り間違えが起こらない限り、努力などで環境が激変するようなことはめったにない。(天変地異、事故などは除く)

富裕層はコネなども強いので就職などにも強い。もちろん、親が会社をやっている場合があるのでそれを継いだり、経営を学ぶチャンスもあるだろう。サラリーマンの一般家庭でそういった経験をさせてもらえる子供っていうのはほとんど聞いたことがない。もちろん、経営側としての苦労はあるだろうが、過酷な就職活動ほど効率は悪くないはずだ。
有効求人倍率が1を上回っていたとしても、すべての企業がまともだとは限らない。就活生の調査の努力だけでブラック上司やブラック企業などの情報が完璧に入るとは到底思えない。もし、これで完全にわかったとしたらそいつは間違いなくスパイだ!! 探す努力じゃなくて、それは犯罪だ!!

下のリンクの池田さんのブログより。

・適度に報われる社会ってどのぐらいなんだろう

 「努力が報われすぎる社会」は「努力をしなければ報われない社会」です。だから努力するなという話では全くないのですが、あまりに相関しすぎるのも考えものかもしれません。そして「努力が報われすぎる社会」は、あまり良い状態にない人を「努力をしなかった人」や「努力ができなかった人」という罪人として疎外しやすくなります。
人には出産や育児を含めて仕事や学業以外にもすることがありますし、体調不良もあれば、多少は自暴自棄になる事もあります。そのようなことすら許さずにいられない社会が幸福な社会なのでしょうか。「努力をしても報われなかった自己」をありえた自分の死体としてイメージできるからこそ、他者に優しくなれる部分もあるのではないでしょうか。「努力は報われるかもしれない」ぐらいの立ち位置でちょうどよいのです。少し極論になってしまいましたが、そのような事を思いました。



努力が直接報われるのって、受験の記憶力とか、会社経営の稼ぎ、オリンピック選手ぐらいではないだろうか。もちろん、人によっては少しの努力だけで大きな成果を出せる人もいるのでもともとの能力(gift)の影響のほうがでかいんじゃないだろうかと思う。会社員で必死こいて努力しても管理職のポストの倍率は異常なまでに高い。大企業であれば余計その拍車がかかる。出世競争が好きで努力したいというのであれば、それはそれでいいのではないかと思う。

ただ、それ以上に努力の比重が重すぎるというのはあると思う。もともとの能力(以下、gift)を1として、求められる努力を1億みたいな状態があったとしたらあまりにもキリがないと思う。
もっと身近な例で言うなら、筋トレを頑張って室伏広司と力比べで勝てるかな?という感じだ。
筋肉は人や遺伝子、食生活などで決まるが、かなり大きい要素は遺伝子などの体質ではないだろうか。

日本人は黒人に比べ、筋肉がつきにくい体質になっている。それは努力不足でも何でもなく、その環境で生きるために進化(分化)した結果だ。生活習慣病レベルの生活をしているならともかく、そうでなければ筋トレだけでなんとかなる部分とそうでない部分は分けて考える必要があるだろう。

日本人とアメリカ人の努力評価に関する話が「ひきこもり考」という本に書いてあった。一部を解釈して話を進めていこう。
どうやら、日本人はもともと失敗を「自分の能力や努力の欠如」などの内的要因にもとめているらしい。
だから失敗するとまだ努力が足りないなどという形で頑張れるようなようになっているようだ。そして、日本人は成功のことよりも失敗したことに注意を向けるようだ。
アメリカでは真逆であり、失敗するとやる気を失い、成功すればもっと頑張れるだろう!と不向きなことをずっとやるより得意なことを探す傾向にある。
日本にいるひきこもり/ニート傾向の人は「アメリカ的考え」の人が多く、努力を過剰にするよりは得意分野を探すという方法をとるようであり、うまく適応できなくなってしまっている。
もちろん、これはどちらの考え方にもメリット・デメリットはあるので「アメリカ的考え」の人がぼろくそに言われる理由は存在しない。ただ、「努力的考え」の人が気に食わないということだけでつぶされている状態だ。
もちろん、アメリカの人が「努力」を軽視しているわけではない。自分が持っているgiftによって伸びしろが違うということを認識しており、得意分野を伸ばすことを重視しているだけだ。

だけど、日本のゼネラリスト教育ではその得意分野だけを伸ばすという発想は協調性がないとしてすごく嫌われる。 頭の固い連中め!!
潰しが利くっていうことが日本の組織では必要なのだ。会社の中で営業から経理に異動になってもそれはまた教育しなおすというやり方だからだ。

過剰な労働時間になる状態というのは努力の要素が大きくなりすぎているのだ。しかも、残業の場合はだいたい努力の指標が滞在時間であることがほとんどだ。効率そのものも関係ないわけではないが、長い時間働いていると通常労働効率は悪くなるので考慮するにはちょっと要素に欠けてくる。
そして、先進国最下位の労働効率という結果が出てしまったわけだ。これは努力でどうにかできる時間の長さではなく、構造や仕事量の問題である。だから、不必要な仕事を減らしたり人を増やしたりなどの対策にしなければいけない。

1人1人の能力に依存しすぎているので、その人が抜けると業務が崩壊するという脆弱性も兼ね備えているので毎日が綱渡りの経営をしていることになる。ただ、今の日本は新卒がすぐに手に入るので綱渡りでもやっていけてしまう分、たちが悪い。 これがうまくいかなくなると企業は倒産する。ただ、大企業がつぶれた場合には無理やりお金を出してでもつぶさないということもその状態を促進する。

人間一人にどんだけの過剰期待をしてるんだ・・・この国は。