マイノリティ雑貨店

自動車、発達障害などを扱うブログです。最近はQMAにはまっています。

暴走族は組織適応性が高いのでは?

ふざけたタイトルだと思うかもしれないけど、これ結構真面目に言っています

【なんでそんなことを言い出すのか?】

世間的に暴走族は社会的不適合って結構いわれる。そこには実際に被害を受けている人がいるからだ。めっちゃブンブンうるさいし、いきなり車の間に割り込んできたりして危険だ。今はそれほどないけど、昭和のときは組同士の抗争や殴り合いなんていうのもあった。そもそも犯罪やってるから悪いことをやっていることは事実だ。

 

ただ彼らの中には更生して会社員になる確率が少なくはないんだ。

だからこそ少し考えてみることにしたんですよ。

社会不適合ってどういう種類があるのか?って考えたことってありますか。

よく考えてみるとこの「社会不適合」ってすごい曖昧な言葉なんですよ。

それについて考えていきたいけど、まず前提が必要だ。

【あなたは社会人って言葉を真面目に考えたことがありますか?】

さて、日本の社会の前提について。日本独特の言葉として社会人という言葉がある。ここに社会不適合が曖昧になりがちな要素が隠れている。

そう、みなさんもご存知のとおり社会人というのは会社員のことだ。それも派遣社員やアルバイトではなく正規雇用を受けている人に限定される。脱社畜ブログの日野さんもかなり古い記事において言及しているが、いまでも余裕で通用する記事なので一度見ていただくとすごくわかりやすい。

ビジネス方面に舵を切ってからは見る頻度が減ってしまったが、過去の記事は結構秀逸なものが多いのでほかの記事もぜひ参考にしていただくとよいと思います。

自分が変わっていないということであれば、指摘されるのだろうけどね。

dennou-kurage.hatenablog.com

社会人という言葉は、字義通り解釈すると「社会の一員」ということになるだろう。しかし、現実には社会人とは「定職についている人」を指す言葉として使われる。学生は当然入らないし、フリーターも社会人としてみなされない場合が多い。

 

この、学生やフリーターが社会の一員ではない、という捉え方はおそろしく乱暴だと僕は思う。学生やフリーターだって、人に会うし、物も買う。お金も稼ぐ。立派に社会生活を営んでるじゃないか。山奥に一人でこもって狩猟採集民のような生活でもしていない限り、人はみんな社会人のはずだ。

 

むしろ、この言葉は正社員として就職して働かなければ社会の一員ではない、といった狭量で差別主義的な思想によって支えられている。「社会人としては失格」や「社会人なら◯◯するのは常識」といったテンプレ表現は、単なる生きるための手段に過ぎない労働を、過度に崇高なものにして、それができない人を必要以上に責めるために使われている。

色を赤くした部分は特に重要な指摘をしている。

要するに、社会人という言葉があるということは能力によって受けている待遇よりも、正規の所属をしているかどうかに対して日本人はすごくうるさいことになる。

日本の基準で言う、正規な所属をうけるためには何が必要か?それは組織適応性だ。

【社会人という言葉は、組織人のための言葉だ!】

わかりやすい例をひとつ。

ホリエモンはすごく仕事が出来る。いらつく人もいるかもしれないが、これは事実だ。

24歳で会社を作り、すごく儲けた。インサイダー取引の件で投獄されてしまったものの、もう一度復帰してTV出演や経営をバリバリこなしている。

では、彼は会社員として活躍できそうな感じの男だろうか?

自分も含め、誰もこの問いに首を縦に振ることはないと思う。彼には組織適応性がないからだ。能力があってもいろんなしがらみや規則のせいで空気を読んだり行動を止めたりしなければいけない。

会社員的にいう斬新な発想というのは、あくまで社会の常識の中におさめなければいけないのだ。実力は劣っても、常識っぽく見せる努力がそれ以上に必要だ。

仕事能力は高いから成果は出せると思う。でも、そんな状態に耐えて行動できるか?って話ですよ。もしどうしてもやるとしたら、会社の規則とかクソクラエみたいに思うんじゃないかな。

何が言いたいのがわからない人向けに言い換えれば、上司や一般常識、ブランドの中で都合よく扱えるような状態でなければそれがどんなに画期的であろうと受け入れられることはない。言い方は悪いが、小うるさい連中のご機嫌をとる必要がある。

 

ブラック企業というのは、暴走族と本質は一緒】

両者の本質は組織という集団の単位で法律違反を犯すことだ。

ただ、違うのは違反する法律が労働基準法ブラック企業道路交通法+市の迷惑防止条例(暴走族)かというくらいではないだろうか。

前者は曲がりなりにも書類上、お役所に認められた組織なので暴走族ほどの取り締まりは受けないが、こうした組織で働く日本国民にとっていい影響を与えていないことは事実だ。

暴走族に焦点を当てて話をしましょう。

ヤンキーとかチンピラの世界はアウトローだが、本質は上下関係の厳しい体育会の世界だ。会社に好まれるのは運動部出身の体育会系だが、背景は違えどノリがそのまま通用するやつらなんですよ。

2つ前の記事でも言ったけど、野球部の強豪高校のやつらは裏でのエピソードが暴れたヤンキーと大して変わりない。PL学園のいじめの話とか胸糞悪すぎる。

暴走族に入るということは、組織の中でうまくやっていく必要があるということだ。

そう、ここで重要なのは日本の学校教育が嫌いなことと組織適応性がないことは別のものとして考えなければいけないということ。

昔、自分は「なんでヤンキーはわざわざグレてまで学校みたいに厳しくされる集団なんかにまた入りたがるんだ?」ということを本気で考えたことがある。

ある人に聞いたら「あの厳しい感覚にしびれるんじゃないの?」という答えが返ってきた。だが、それはとてもではないが納得できる返答ではなかった。

その答えがここ最近になってわかり始めたような感じだ。

【教師が嫌いなのに、厳しい組織に入る理由】

学校が嫌い。先公が嫌い。でも、後者のストレス要因って本質的には問題が解決していないんだよ。なんでかっていうと暴走族の先輩と学校の先生って自分が従わなくてはいけない上位の相手という点ではまったく一緒だからさ。

でも、彼らはそこに入る。なぜなら、組織の中に入っていくことが嫌ではないからだ。

組織適応性のないアウトローというのは絶対に集団で悪さをしようなんて考えることはしないんだよ。だから、グレようという気にもならない。集団で暴走するためにはチームワークが必要だ。

「男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学」という男性学を専攻にしている田中俊之先生の本に次のような暴走族の話が書いてある。

誤解されているかもしれませんが、暴走族は非常に統率のとれた集団です。上下関係は厳しく、基本的に20歳で卒業していきます。また、公道で暴走行為をするためには、役割分担が重要です。例えば、警察をまく係がいたり、十字路での衝突事故を防ぐために道を塞ぐ係がいたりします。要するに、暴走族内部のルールを遵守し、しっかりとした集団行動をとる必要があるのです。なお、妙に詳しいと思われるかもしれませんが、経験はまったくありません。

やってることは間違いなくいいことじゃない。でも、統率は取れているので企業的な要素持っているんですよ彼らは。だから暴走族が更生して・・・会社員でバリバリみたいなエピソードがあるけどあれってそんなに方向性がずれているわけじゃないんだよね。

だから、ブラック企業って言い換えれば経済界のヤンキーやDQNみたいな感じなんですよ。ブラックとして名高いワタミすき家は最悪のヤンキー・ヤクザ組織の関東連合みたいなものにあたるんじゃないだろうか。

 

【組織に疲れた人へ】

今の日本は構造上どうしても会社員としての生き方を求められちゃう。だから無駄に組織適応性を問われてしまうわけだ。自分だけの小さな組織というのをすごく作りにくい。だからこそ、人生に疲れて自殺をする人が増えているのかもしれない。

組織適応性がないことを自覚しているが、会社員として嫌々働けていられる人はまだラッキーだと思う。

「うるせえ」とか思いながらふてぶてしく社会適応したフリをできているなら儲けものだ。どのみち本当の意味で適応するなんてことは自分にとってもきつくなるだろうから、無理に「社会人っぽくしようと意識すること」はおすすめしない。

どっちみち、そんなガラにもないことしたところでボロが出るのは時間の問題だ。

ただ、「うるせえ」とも思えずに日々憂鬱な気分で死にたいというのなら辞職を想定するという選択肢は持っておいたほうがいい。

精神を壊してしまってからでは復帰をすることはすごく難しい。まぁ、そういう壊して云々の話はのほうが実体験からもっと深いことを述べているのでここのブログより説得力あると思いますぜ。

組織適応性がないなと感じている人にはもう一言。

【"社会の常識"とやらに過剰適応するな!】

別にルールや規則を破れなんていっているわけじゃない。

自分は組織だけのために生きているわけじゃないということ。それは自分のためかもしれないし、友達のためかもしれない。組織に所属していれば経済的に生かしてくれるレベルは上がる。だけど、組織と自分の区別はつけておいたほうがいい。

これをもっと具体的に言うと、自分の所属組織=社会みたいな感じになって大学生や子供に説教するような大人になるなということだ。この手の説教をしてくる人の話はあくまで組織内の振る舞いだけに関してであり、電車内などの「公共社会」まで言及はしていない。

わざとではないのに、軽く当たったくらいであからさまに電車の中で舌打ちするようなスーツの男を自分は何人見てきただろうか。まぁ、しょうがないなと思うようになりました。(=あきらめた)

スーパーなどで店員に威張る人も同類だ。

その組織内の正しい振る舞いも本当にいいのか?と思うくらいがちょうどいい。常識が身にあってるならそこに関してはもう何も言いません。

日本の人たちは意外と狭い価値観で生きることに慣れすぎている。

労働時間が長く、会社という狭い世界で生きているから「社会では通用しない」みたいな話がある程度通じてしまうように感じるだろう。

でも、そういう状態って本当にいいのか?って考える必要があると思いますよ。

 

 

ギア比の設定と使い心地を並べてみた

 

 

1速⇔2速がワイドレシオな場合

メリット

1:加速時に回転数が結構な勢いで落ちるので、低速トルクの強いエンジンでは静粛性と加速力を両立できる。これによって燃費もよくなる。

2:また、2速にした後は若干ハイギアードなため、流れの速い幹線道路などではそのままのギアでも割と高い速度まで引っ張る準備ができる。(そのかわり、加速は若干犠牲になるが・・・)

3:外車などに多いダウンサイジングターボでは1速をローギアードにし、回転数をあげて加給を早めることでハイギアードに設定された2速で回転数が落ちても十分なトルクを確保できる。

4:軽トラのように1速を発進用と割り切るようなギア比設定ならクラッチをつなぎやすく、次のギアで静かに巡航しやすいという運用が可能。

 

デメリット

1:時速10キロ以下の渋滞路・駐車場では、回転数が落ちすぎて2速ではトルク不足でギクシャクする。要するに、微妙に速くなった速度でも1速のまま走り続けないといけない場合がある。

2:険しい山道での発進では1速で回転数を上げたにも関わらず、すぐにシフトすると2速で回転数がかなり落ちるためパワーが足りなくなることがある。

3:低いギアで回転数を上げてシフトすると、変速後の回転差が大きくなるため雑なクラッチ操作だとシフトショックが出やすい。特にMT初心者はこれでめちゃくちゃ気を使う。

 

1速⇔2速クロスレシオな場合 

メリット

1:渋滞路では割と速めにシフトアップできるうえ、2速でもギア比が高すぎないため十分なエンジンブレーキを活用できる。

2:山道でも、発進後2速にシフトしたあとのパワーバンドが外れにくい。

3:軽自動車では排気量の制限があるため回転数を上げないとパワーが出せないが、ギア比が近いことで回転数をそれなりに保てる。

4:狭い道や駐車場でも2速に入れやすいので、そういった場面で静粛性は保てる。

デメリット

1:広い道では、引っ張っても最高速が伸びないからシフトが忙しい。(賛否両論)

2:乗用車向きな乗り方で考えると燃費・静粛性が落ちる傾向にある。

3:発進時に回転数が上がりすぎてしまうため、低回転でも十分なトルクのある燃費志向の大排気量エンジンには向かない。

 

 

2速⇔3速がワイドレシオな場合

メリット

1:幹線道路におけるシフトアップでは静粛性が高まり巡航しやすいため、燃費重視の乗用車エンジンにはすごく向いている。3速で引っ張りやすい設定ともいえる。

2:右左折のさい、かなり低速ならシフトダウン後の加速がしやすい。

 

デメリット

1:流れがよい状態の右左折のスピードだと、2速では低すぎて3速ではパワー不足ぎみということがある。

2:山道において3速のギア比でエンジンブレーキが弱いと感じたときに、2速に入れると五月蝿いばかりで最高速が伸びなくなるので排気量によっては交通の流れを悪くしやすい。もしくは、回転数が高すぎて2速が使えなくなる。

 

2速⇔3速がクロスレシオな場合

メリット

1:山道のくだりの急なカーブなどで2速へのシフトダウンによるエンジンブレーキの強化が非常にしやすい。とくにエンジンブレーキの弱くなる小排気量の車ほど影響が大きい。

2:高回転エンジンではトルクのある部分が使いやすくなるため、かなり山道でも細かい調整が利きやすくなる。

 

デメリット

1:街中ではシフトが忙しいので2→4の飛ばしシフトくらいでちょうどいい場合がある。(軽自動車ではトルクがないのでおすすめしない)

2:大排気量で低速トルクの大きい車ではここらへんの設定自体に意味があまりない。

 

 

3速⇔4速がワイドレシオの場合

メリット

1:シフトアップ時の4速巡航が静か。

2:上り坂でシフトダウンしたときの加速力アップが期待できる。

3:車種によっては、3速でも左折がしやすい。

4:低速トルクのある車なら燃費がよくなる。

 

デメリット

1:平地でシフトダウンするとき、ギクシャクしやすい。

2:3速を割と引っ張らないと巡航がもたつく。(小排気量ほど顕著)

 

 

3速⇔4速がクロスレシオの場合

メリット

1:60kmくらいの割と高いスピードからでも、シフトダウンを併用してのエンジンブレーキが使いやすい。

2:上り坂でシフトアップしてもパワーダウンしにくいため、静粛性がマシになる。

3:ワイドレシオに比べ、高い速度での右左折がしやすい

 

デメリット

1:強めのエンジンブレーキを期待しすぎると思っていたより利かない。

2:3速が加速向きのギア比だとシフトアップ後も巡航がうるさい。

3:高回転エンジンでは燃費が伸びない。

 

4速⇔5速がワイドレシオの場合

メリット

1:巡航重視の5MT車ならエンジン回転数を落とせる。(燃費・静粛性)

2:ギアの離れ具合が適切な範囲であれば、高速道路でのエンジンブレーキが強めにできる。

 

デメリット

1:街中で無理に使うとすぐに4速に落とす羽目になる。

2:シフトアップ後の加速が悪くなる。

 

4速⇔5速がクロスレシオの場合

メリット

1:加速重視の車なら、5速からでも加速・エンジンブレーキの活用がしやすい。

2:低速(50~60km/h)からでも入れやすい設定にできる。

デメリット

1:5速MT車だと高速道路巡航の回転数が高くなり、燃費や静粛性が下がる。

2:高速道路のシフトダウンによるエンジンブレーキがやや弱くなる傾向。

 

 

 

5速⇔6速がワイドレシオの場合

メリット

1:1速から5速を加速向きにして、6速だけを高速巡航としてギアの割り振りがしやすい。(燃費向上のための振り分け)

 

デメリット

1:ラリーなどで使う加速重視の車では巡航のためのギア比を設定する意味があまりない。(6速にしたことで歯車を薄くするので、耐久性が落ちる)

 

5速⇔6速がクロスレシオの場合

メリット

1:5速をトップギアにして、その下の1~4速の間のギア比を詰める設定ができる。

(加速重視のラリーカー向け)

2:低速域(~80km/hくらいまで)ならギアの選択による運転の仕方の調整がしやすくなる。

 

デメリット

1:高速巡航が苦手になるので、燃費や静粛性は劣る設定にせざるを得ない。

2:ギアの間が細かくなるので町乗りではシフトチェンジが忙しくなる。

世間が求めていた「コミュ力」ってこういうことだったんですか?

今日、こんなツイートを見かけた。視点がすばらしいと思ったので言及させてもらう。

 

【○○が好きな文化系の学生は採用しない=私は体育会系独特のコミュ力しか対応できない人です

企業側の言い分としては、「商品を消費する人と商品を売る側の人の分別がついていないんじゃないの?」といいたいのかもしれない。

言いたいことはわからないわけじゃないさ。ただね、商品を売る上で、商品の知識を学ぶ能力が高い人ってどういう人なのか理解していないからこういうこと言うんじゃないのかね?って気持ちになるんですよ。

 

ここから考えさせてもらうと持っている知識や本来のやる気を買おうとする意志を試しているかというと微妙なんだよ。物を売る上での知識とか背景とかに詳しいっていうことはその分野に関してはオタクにならざるを得ないんだよ!

その分野が好きな奴は好奇心が手伝って商品知識の習得が早いことを理解していたら、こんな発言はできないよ。

例えば、鉄鋼関係とかで営業するじゃないですか。

客先でステンレスの材料について聞かれたとしましょう。その関係の知識なくて

「SUSってなんですか~?僕わかりましぇーん」とかいうの?

話を聞いている限り、自分たちがあんまり関わってきたことのない理系とかオタク風の学生を弾き飛ばしたい口実にしか聞こえないんだよね。

 

あんたらが、本当にコミュ力がある人がほしいっていうんなら理系や変なことに詳しいオタク系のやつともうまくコミュニケーションできることを見せてからにしてもらわないといけないよね?

だって、仕事上でコミュニケーション能力がほしいんでしょ? ならば、あなたたちはコミュニケーション能力がなかったらまずいことになる。

それともなんですか?コミュニケーション能力というのは「体育会系特有の常識だけを持ったコミュニケーション」に限定されてるのだろうか。

もし、後者だとしたらあまりにも価値観が狭すぎる。

前提として体育会系がプロのスポーツマンとしての発想から来ていると主張するとしよう。それに対する自分の答えは「ちょっと待て」と言いたい。

【日本の体育会系はスポーツマンとしての精神とは違う!】 

スポーツを激しくすると体力が消耗する。体力が消耗したら休んで筋肉の回復を待たないと次の試合とかに影響が出る。

それに対して日本の会社のブラックな体育会系って「休む」発想がまったくないんですよ。要するに、スポーツ科学の視点から見た筋肉の回復もへったくれもないわけ。

それで根性がある? ふざけんな。疲れている・無茶に慣れすぎて感覚が麻痺してるだけじゃん。運よくつぶれていないだけだよね。

あともうひとつ考えるとするなら日本の会社というのが体育会系やマイルドヤンキーみたいな人たちに最適化されすぎて他のタイプの人種を入れにくくなっているんじゃないですか?

同じ性質がゆえに秩序は高いし安定はするけど、いろんな要素が混ざらないから変わるということに関してはすごく弱い。

昔の記事でも何回か言及したけど高度成長期はそれでもよかったんですよ。単一な人材で回せるくらいの時代だったの。その構造をまだ見直せていないってことなんだ。

ちょっと前の記事でもいったけど、自称常識人として干される日が来る。

【体育会系の人が世間的にコミュ力あるように見えてしまう理由】

 

体育会系独特のコミュ力について少し話していこう。

野球の強豪高校とかさ、体格や能力としてはすごい奴多い。けど内部告発のエピソードがあまりにも人としてクズすぎるんですよ。

後輩をボコボコにしたとか、罰ゲームで厳しい上下関係を身につけさせたとかそんなことを手柄にしている発想が理解できないんだよ。自衛隊関係の連中もそう。

本来なら、暴行事件だから警察がかかわるべきだよ!しごきとかですましていい問題じゃない。

TVで写す雰囲気が華々しいから美しい風潮にしたがるんですよ。

恐ろしいのはマスコミとか世間の人たちがそんな倫理感覚を持っている人たちを問題視しないことだよね。高校野球の試合の結果くらいしか見ていないんじゃないか?ってくらいのひどさ。これは情報収集のリテラシーのレベルもあるので単純な問題ではないんだけどさ。

結構勘違いされるので言うけど、自分は野球というスポーツが根から嫌いというわけじゃなくてその界隈に停滞しているクズの自浄作用のなさが本当にいやなんですよ。

言い換えれば、自浄作用のない組織に適応しているので同じ雰囲気のような会社に入ったとしてもそのままのノリが通用しちゃうってだけなんですよ。

しかも、上役の人に対しては黒い部分をきれいに隠すのが彼らはめちゃくちゃうまい!ある意味感心しちゃうと思うところだ。賞賛はできないけどね。

だからこそ、同じようなシゴキを受けても自浄作用として働こうとする桑田真澄とかはすごい評価したいんだよね。

 

{教育のしくみとかそういうのは面白いんだけど、球技観戦に興味がないので野球の試合を見ることが好きな人とは話が合わない・・・。簡単に言えば、世間を理解する道具として使っているので興味の持ち方がおかしい。だから、セ・リーグとかパ・リーグとか言われても何じゃそりゃ?って感じになる。}(余談)

 

もうひとつ、ツイートを。

 

【運動部に所属してかつ、体育会系のマインドに同調しなければいけない】

 

問題の本質は所属していたことじゃないんですよ。なかなか鋭いところ突いている。

運動部やっていたからこそ、体育会系の黒い部分を見てしまってあのノリに憎悪を感じる人がいるわけだ。そういう態度を感じ取ると、体育会系は必要以上に敵視するんですよ。それは、怒ったスズメバチのごとく違う巣(考え)のものをつぶすかのように。

余談だがチャラいやつとかは毛色は違えど、空気を読むことがすきなのでそういう集団に慣れているんだ。意外と親和性が高いのはそのため。

【体育会系偏重社会は技術系の人を軽視する社会】

 

社会を体育会系だけで回そうとしていると、結局はオタクが強い研究・技術関係ってつぶされる。形だけスーパーサイエンススクールでお茶を濁すようなことしたって、そんな付け焼刃な発想が通用するわけないよ。根本から治さないとだめ。

華々しいノーベル賞は好きだけど、内容なんかどうでもいいやって感覚がものすごいある。要領はいいけど、深みの足りない人たちばかり構成してどうするのってことになるんですよ。

ちょっと自分でも言い方が悪いと思ったのでフォローすると、こういった要領がいい人たちを批判しているように見えるが、彼らは社会的には必要な要素だとは思うんですよ。団結とかそういう能力ではやっぱり強い。

だからこそ、あえて見出しの「偏重」を赤くしたのだ。

ただ如何せん日本はそのバランスが悪すぎる。いらちな奴が多すぎて大事なこと見落としているんじゃないの?ウワベだけ持っていこうと思っているんじゃないかってすごく感じる。

そういうことを警告しておきたいってことで、今回は以上です。

言っちゃ悪いけど、球技の学校教育とかってトラウマを作る要因じゃないの?

ごめんなさいね、教育担当者の人や球技のチームプレイが好きな人たち。

学習指導要領のやり方、チームプレイの前提なのかもしれないけど、あれは確実に社会的な殺しにかかっている部分があるからちと言わせてもらわないといけない。

 

あまりにも前提が違いすぎるので共感してくれという贅沢なことは言わない。

ただ、こういう視点があって「そもそもぜんぜん前提が違うんだ・・」という感覚くらいは持ってほしいということで言いますよ。

 

まずひとつ。これはあなたたちにとって驚くべきことかもしれない。

球技って何が楽しいの?そして、楽しくやるというけど、やっている様子を見る限り異常なまでにピリピリしているんだよな。

あの様子はぜんぜん遊んでいる・楽しんでやる感覚とはいい難い。苦手な人にとっては求められているレベルが高すぎるうえに強制参加なんていうのは地獄以外の何者でもないのよ。部活のノリの延長でやってるんだろうけど、やめてほしい。

球技が好きな人の和気藹々のレベルは凶器なんですよ!

それで「参加しなよ~ゆるいから~」っていうのを断れないっていう空気がどれだけ重いのかっていうのを自覚していない。

本当に苦手なレベルっていうのはあなたたちにとってはふざけているように見えて怒りたくなるんだと思います。ただね、運動が苦手な当事者はふざけているわけでない。ガチで必死なのにあの動きしかできないからネタみたいな状態になっている。

ふざけているやつはもうちょっと動きに余裕があるんだよ。参加させておいてキレるくらいなら、最初から誘うんじゃないよ。そんなのを「協調性」だなんていうのははっきり言って有害だ。

なんで有害とまで言うかわかります?

不向きというレベルが、努力しても伸びしろが期待できないからだよ。マシにはなるけど、あんたらの最低限求めるレベルにいくには何年かかるの?って話。

球技系のチームプレイは、大抵それぞれがフォローできる最低限の能力を持っている前提で動いてるんだよ。

要するに、ある程度同質の能力を求められるからそもベースの能力がある程度持ち合わせていないと、必然的に迷惑かけちゃう。そういうことを自覚してるから参加するというのが怖すぎる。

バレーボールなんかだと、6人しかいないからそれぞれの能力が高くないとそもそもお話にならないですよ。体がついていかないと意味がない。

そもそも球技の動きが苦手な場合って言うのはどうやって動いたらいいかわからないし、もっと低いレベルから指導してもらう必要があるんだよ。

学校教育の球技ではその「低いレベル」っていうのを想定して教育されていないんだ。

そもそも、距離感がおかしいとか、体のイメージをつかめていないとか、動きを見て真似するという「簡単な」ことから困っているなんて、あんたらは想像もつかないんじゃないですか?

はっきり言わせてもらうけど、学校体育でそういうことから指導された覚えなんてないよ?

そういう感覚のない人が指導する体育って言うのは、「球技=楽しい」という発想で、勝手にやっていれば伸びるでしょ?みたいな考えで指導しているから楽しく感じる層と地獄な気分を味わう層とが二極化するんだよ!

後者のほうは理解できない方人格を半分くらい否定されてこれからの人生の自信に影響を及ぼすんだ!

「こいつ、オドオドしてるな」って思っているやつがいたら、それは自称チームプレイが得意なあんたらが気づかないうちにそうさせたんじゃないの?って言いたいんだよ。

具体的な例だと自治会みたいなところで行われがちな「集団バレー親睦会」みたいなのはマジでクソだと思うんです。

さっき言ったこととかぶる要素があるのはすいません。

だって、ああいったスポーツで親睦とかいってもやってるやつらがガチすぎる!

んで、トラウマ級に苦手・嫌いな人も強制参加。

うまくいかなければグチグチ言ったりするんでしょ?そんなの親睦でも何でもねえ、やりたいやつらだけで楽しめってんだ!

好きな人たちは「仲間なんだから。参加することに意義があるんだよ☆」っていうけど、その前提条件がやる気がある/能力的にある程度こなせるという事項を求めている。そして、それを隠しているのがマジで気に入らない。

入り口だけは柔らかい態度していて、いざ参加してみたらヘラヘラやられる・下手なプレイをされるのが嫌って態度ならそういう集団だけでやればいいじゃん。

本当にゆったりな親睦したいなら、そんな結果の多寡でギクシャクするようなもんをやるなよ!

ゆったりというのは選択の自由があってこそのものだろ!

まぁ、もしかしたら自分の仲間内のグループが結構テンテンバラバラで統率とれていないような感じなのでそういうのに慣れてしまっているっていうのもあるんだろうけどさ。

 

カラオケで音痴すぎて場が凍るみたいな状態になってるといえば分かりやすいだろうか。でも、自分はどんなに音痴な人だろうと楽しんで歌ってくれている分には別に気にもしない。いろんな歌唱力・曲目のジャンルを歌う人がいるからこそ面白いんだ!

 

なんというか、競技の構造上仕方ないのかもしれないけどそういう違いに対する粗みたいな要素を気にする人が結構いるからすごく入りづらいし、参加しても隅っこで縮こまる人が多くなるんですよ。

ゆるいはずの親睦会で変に空気読ませてしまっている時点でだめなんじゃないかな?

 

そして2つめ。

あと、自分はぜんぜん違うタイプなんだけど「ガタイがよくて体力テストだけ成績がすごくいい、もしくはチームプレイやボールを使わない柔道、水泳、陸上などは上手。でも球技はからっきし」の人たちも結構被害受けているんですよ。

 

体格がでかい=運動神経がよいみたいな期待を勝手に持たれてガッカリされるみたいなことを体験した人は多いのではないだろうか。

スポーツ選手は身長が大きい人が多いので、第一印象でプラスなんだろうけどそのプラス分は彼らにとってプレッシャーになる。ましてやできそうなイメージのため、本当にできなくても「できないのはやる気がない」みたいなとられ方もしやすい。

うまい人とやると迷惑をかけてしまうことが分かるので、ヘタクソなチームに入れてほしくても、入れてもらえない確率も高くなる。

前者と違うのは、運動関係のベースが低いわけじゃないので個人競技などを極めて結構大成できる可能性があるということだ。

もし自分が前者だなと本気で感じているとしたら、その土俵で無理に張り合うことはないんじゃないの?と個人的なアドバイスをしておく。林先の台詞を借りると、少しの努力で何とかなりそうな分野を見つけたほうがいいというのはマジだと思う。

 

 小さい頃に親とボール遊びをしなかったとかの環境の話があるかもしれない。

そもそも、球技が嫌いなやつっていうのは小さい頃から違うんですよ。

親と一緒にボール遊びしててもそもそも遊び自体に興味を持てていない。

なんでそんなことが言えるかっていうと自分がそうだったからだ。

体を動かすよりもじっとしていて青空を眺めていたり、積み木でモクモクと遊んでいるほうが好きなやつだっているんだよ。たしかに、ガキンチョはワーワー動いているほうが多数派な気がするし目立つ。

まぁ、結局は環境もあるんだろうけど興味の強さもあるんだろうなって気はする。

いろいろ荒れてしまったが、スポーツが嫌いな人が理解できないって人向けに説明しました。今まで生きてきた人生でこういう背景があったんだよということです。

 

日本には「オタク=悪」の意識がこっそり潜んでいるのではないか

言い方が若干まずいような感じもするが、今回はこう表現するしかない。

この手の問題が厄介なのは、コミケの広がりなどでオタクが受け入れられているかの様に表面上見えてしまうことだ。

要するに、どういうことかと言えば昔の新聞みたいにコミケが「気持ちの悪い人たち」みたいなあからさまなレベルでの差別はなくなっている。「キモオタ」の表現もある程度は笑える自虐ネタみたいな感じで使える雰囲気がある。

本当のことを言えば、あんたら差別感情がどこか残っているんじゃないの?ということを示唆したいのですよ。もちろん、あからさまに迫害されていて居場所がない状態よりは健全だとは思うし多様性の受け入れとしてのベースはあるんじゃないですかね。

 

では、なんで自分はオタクを悪とみなしている意識が根底に残っていると主張することになったのか。根拠はこの岡田斗司夫さんの動画より。

www.youtube.com

 まず、46:06以降の「スーパーヒーローの政治学」まで送っちゃってください。

その前の進撃の巨人とかマジいらないので放置してください。

別に表示とか出るわけじゃないので岡田さんの声を聞いて判断をお願いしますよ?

まず、整理するとこの話の中には3つの正義の思想が出てくる。

彼の言っていることをおおまかに説明しよう。

ロールズ(哲学者)の思想

個人の才能(gift)を活かして社会に還元しなくてはいけないと義務があるという発想。才能とかそういう能力で得た富は個人で独占してはいけない。社会に能力を貢献することが正義であり、使わないものは道徳的に悪になる。

リバタリアン自由主義者

ロールズとは逆で、この思想では才能とかそういうものを個人で独占すべきだし、富もその才能を持つ人に与えられるべきだ。自分の権利を侵害されないこと・他人の権利を侵害しないことが正義

③日本の善と悪の思想

まず、悪がある。そのうえで、ヒーローが立ち上がって倒すことが正義。それゆえ、悪がなければ正義ということ事態が発生しない。

 

①、②、③を絡めた深い話を聞きたい人は彼の動画をそのまま見てくれればいい。

ホリエモンとかの話が聞けてなかなか面白い。

自分が話したいのは③の話だけをもぎとったやつなので、それをベースに進んでいく。

 

日本の社会では空気を読むことが重視されるわけですよ。

ユリ熊嵐なんていうアニメがちょっと前にあったわけだけど、あのアニメの3話目くらいだったかな? 

 「空気を読まない=悪」という映像が出たわけ。

個人的にあんまりハマれるアニメではなかったのだが、空気を読まなかった生徒が潰される光景は衝撃的だった。

よくよく見ると「モテ論」というのも空気を読ませる試験をしてそれに合わないものを排除する方法をとっている。ただ、あまりにやり方が上手なので社会的に問題になることはない。あのカモフラージュっぷりはなかなか感心するよ。

 

女友達の仲間内では常に空気を読むことが重視される。それゆえ、どんなに好きだったとしてもその子の彼氏が世間体的に美しくなければそれは悪であり、排除の論理を持ち出すのは彼女たちのグループにとって自然なことだ。世間的なカーストが妙に高く、オタク要素な部分が嫌いな集団ならなおさらその傾向に拍車がかかる。

ただ、引き離すために直接的な「別れてよ!」という直談判な方法をとらず、「もっとかっこいい男にしなよ、あんた美人なのにもったいない」みたいな方法で当事者の女友達の気を段々そらすような形をとるようにしている。

そして、ほかの「そとづらのよい」男に目移りするようにシフトさせていく。これで秩序が保たれ、一安心するのだろう。そっと現れた正義の味方は静かに去った。

それはしぐさとか、ファッションとか対象はなんでもよい。世間的に気に入らないことが入り込んでくるようであれば、即座に排除すべきとまではいかないものの段々ランクを落とすことに躊躇はない。

 

「モテ論」というのはその排除をもっと世間的に受け入れやすくしたものだと思っていい。オタクや地味な人が苦手なファッションや自然なしぐさをうまく取り入れることで近づきにくくする効果がある。

本当に自然体で付き合うということをさせにくいように仕向けていると思うんですよ。小奇麗な人たちは増えるんだけど、小奇麗のハードルがドンドン上がるため独身率が急激に上がる。

結局、オタクは自然体で独身になるか擬態して無理やり恋愛するかのどっちかになる世界がいつか来る。もしかしたら自分の思い過ごしかもしれないがなんとなくそういうことを感じたので書いてみた。

 

ヒモザイルがなんかパッとしないので自分流に考察してみた

実を言いますとですね、なかなかポテンシャルを感じる作品だなって思うんですよ。

だけど、なんかよくわかっていないなーとかって感じの人が多いので説明とかそんなことをやってみたい。

 

まず、前提としてヒモザイルってこれのこと。

www.moae.jp

www.moae.jp

記事を書こうと思ったきっかけは、これです。別に引用とかはしないけど。

tm2501.hatenablog.com

 

自分は彼と同じ路線で書けない(というか意味がない)ので、若干方向性を変えてすすめていきたい。だから、うしじまいい肉さんとか峰なゆかさんの話はしませんし、面倒なのでやりたいとも思わない。

ちと脱線したがヒモザイルって何ですかって話に戻りましょう。

まぁ、あれだ。簡単に言えば「冴えないヒモ気質(家事担当)と忙しいキャリアウーマンの需要ってピッタリ合うんじゃねーの?」ってことなんですよ。

だけど、冴えないヒモ気質の人はお互いの需要そのもののベースが合っていてもキャリアウーマンのご希望に添えない部分が多すぎて話にならない。彼女たちの仲間、意識高すぎて世間体とかうるさそうだし。

著者の東村さんっていうのは、そういうキャリアウーマンみたいな人たちをよく知っている人だから初期パラメータのヒモザイル軍団に足りないものが一瞬でわかる。

ただ、彼らに必要なパラメータは苦手分野なので伸びしろの悪さを知っている。あくまで「マシ」にするくらいにとどめているのも可能であると見込んだ理由だ。

いうなれば、彼女は「触媒」としての役割なのだ。

日本の自由恋愛市場って、基本的に生まれ持ったコミュ力の初期パラメータで勝負するか、独自に経験値を積んで男のほうが主導みたいな感じで進めていくみたいな感じなのが当たり前だったりする。そこにハードルを感じてしまう人が多い。自分もそうなんだけどさ。

男のほうが主導ぎみで動くというのはどういうことになるか?

1ついえることは女性が「ツッコミ気質」ではないこと。聞いたことある?

「あんたさぁ、そりゃ駄目だよ」みたいな人。自分が知らないだけかもしれないけど、女性側がツッコミ気質みたいなカップルってあんまり見たことないよ?

なぜ、今の恋愛市場で女性がツッコミ気質ではいけないのかを考えていこう。

「旦那のほうがデキる人で、妻はそこそこ」という図式が今の世の中にはすごく求められている気がする。一言で言うなら男の甲斐性と言われるものだろうか。

女性がツッコミ気質で、自然体に結びついたカップルというのは場合によってはものすごく世間体が悪いことがある。

(逆のタイプの対応として旦那がしっかりしていない場合が多い)

本人たちはよかれと思っててもまわりが結婚を望まないような方向に進めることも十分にありますね。

 

ちょっと話の毛色が変わるけどアニメやマンガで女性がツッコミ気質なものって何があるんだろうな?って探してみると案外ないんだなこれが。女性がツッコミ気質な傾向のアニメはだいたい主人公がろくでもない。

リストアップしてみようか。

★俺の青春ラブコメは間違っている。

これなんて、まさに典型的だと思うんですよ。主人公の比企谷八幡なんて進路表に専業主夫志望とか書いて担任教師の平塚先生に殴られる。妹の小町にはいろいろたしなめられるわ、由比ヶ浜にも怒られるし雪ノ下には罵倒される。

おまけに死んだ魚のような目をしているので第一印象で損な扱いを受けていたりする。

だが、空気が読めない(読まない?)とはいえ洞察力や独特の事件解決能力は目をみはるものがあるのではないか。

ヒモザイルの一員に入れるにはピッタリの人材じゃないですか!この人。

惜しいのは実在の人物ではないことだよね・・・

 

★マンガ家さんとアシスタントさん

「ドMの変態漫画家」「汚いキリト」として有名な愛徒勇気。

比企谷と違うのは過去のトラウマを引きずっていないことと、自分はどうしようもないみたいな部分を曝け出してプライドを捨てているところだと思う。

締め切りギリギリまでギャルゲーやりすぎて、足須さんやみはりにものすごい怒られる。でも絵の才能はすごくて、その点では本当に尊敬されている。

マンガの仕事がなかったらこの人、完全にただのキモオタだよ!それも結構なこじらせ方しちゃってる。でも、そんなところが憎めなくて暴言とか吐きながらもどこか甘やかしちゃう女性アシスタントの人たちはマジすげえと思うんですよ。

 

★トリセツなカテキョ(マンガ)

主人公の春吉が落とした17点のテストを拾った井原美沙との話。

クールビューティな彼女と馬鹿だけど明るい男の話。

ただし、井原先輩のツッコミは若干毒がある。俺ガイルの雪ノ下が好みなら楽しめると思いますぜ。

 

今日のユイコさん(マンガ)

主人公 黒木ユイコとその彼氏である多田野トモヤを中心に話が進む。

すごく真面目(カタブツ?)なユイコの口癖は「トモヤ!○○してはダメよ!」のような命令形が多い。

それにたいしてトモヤは「すいません・・ユイコさん」みたいに怒られている。でも、変にデレたりするのでなかなか面白い。好き嫌いが分かれるマンガだとは思うけどね。

 

まぁ、自分はそこまで広くアニメとか見ている人ではないのでなんとなく知っているものをあげるとこんな感じだ。もし、なんか知っている人がいたら情報提供をお願いします。

 

ヒモザイルの使命というのは「今のままではどうしようもないんだけど、光るものはもっているんじゃないの?」っていうような冴えない男を光らせたりする。

でもそれをやるには彼らの持つ資金が足りないんですよ。そのかわり、時間はあるから好き・得意な分野に熱中できる。

逆に独身OLはうなるほど金はあるが、残業とかで時間がとれない。

「凸凹が嵌る!」って思うのはシンプルだけど正しいよね。

ぶっちゃけ、彼らみたいなやつらを社会的に干すのは簡単だ。

放っておけば金がなくなって自滅する。でも、そこをあえて東村さんは見捨てずになんか伸ばすべきなんじゃないの?って思ったわけです。

ヒモザイル軍団はphaさんに雰囲気が似ていると思うが、よく観察するとたぶん彼とは微妙に人種が違う気がする。細かいところはまだ把握できていないので申し訳ないが・・・

 

さっき、アニメの話をしたが対象にするのは比企谷や愛徒くらいに雰囲気から「どうしようもない感」が出ている人だ。

今日のユイコさんに出てくるトモヤは頼りなさそうな雰囲気はどこかあるけど、普通に彼女ができているくらいの社会性はあるので放置しても割と問題はないと思う。

 

そう、最近のモテ論というのは「どうしようもないけど愛すべき奴」を本気でつぶすつもりなんじゃないかと危惧してるんですよ。「イケテる彼を捕まえよう!」みたいな広告のための優生学じゃないけど、そんな感じの圧力が結構せまってきてる。

それに踊らされている人が増えてきているが、世間の基準でイケテない部類に認定された人は風潮によって勝手に生み出された被害者としての立場になるのでたまったものではないよなーと。

 

まぁ、ヒモザイルは割と新しいジャンルなので批判とかはあるかもしれない。だが先ほど述べた意味でのポテンシャルの高さはあるということは言っておきたいなということです。

高いIQや飛びぬけた特性の人を日本が扱えないワケ

読む前の注意書き

 

この手の話をするとEQがどうのという話を出す人がいるけど、面倒くさくなるのでそれについては話しませんし絡める気はないのでご注意ください。

あと、かなり思いつきで書いているので発想がふわふわしていて適当です。

 

会社員に必要なIQってどのくらい?

別に特別成功しなくてもいい、平凡な会社員としての及第点ならばIQはバランスよく95くらいあれば問題なくやっていけると思う。

IQの高低よりも、能力的なバランスの良さが重要となってくる。

個人的に一般的な組織人的(=会社員)に成功しやすいIQはwais-Ⅲとしての基準で考えると「バランスのいい115~120くらい」ではないかと思う。頭がよくて仕事もできるけど、癖が強くないみたいな知性を持つレベルというのがそんな感じ。

waisの標準偏差のばらつきをみる基準である1σが15であることを考えると115というのは平均からギリ外れない境界線ではないだろうか。

 

 

 IQは高すぎるとバランスを失う

 

下手に130とかあるとバランスが崩れて他の人からは「なんやあいつ、意味わからん」とかいわれるし、もっとIQの高い層からは「中途半端に小賢しいやつなので非効率」みたいな感じに苦しむ傾向にあるような気がする。

なんというか、あまりに高くなると思考回路が別のOSで起動するようなことになるので、常人のフォーマットにドライバを合わせるコストが馬鹿にならない。

UbuntuでいうならWindowsのソフトをWineというエミュレーションソフトでみてるような感じだが、あれはやってみると意外と調子がよくない。

なので、IQが20離れると会話がかみ合わないというのはなんか間違っていないと思う。

なぜ、特別擁護学級が小学校や中学校に設置されているのかを考えるとIQの標準を100として扱えば、70以下という基準になるので軽度の領域でも扱いは2σ分下側にマイナスにぶれてしまう。

 それを2σだけ上側にシフトするとIQが130以上ということになるのでばらつきという視点から見ると「異常」ということになってしまう。

能力のバランスが悪い高IQの人は「コミュ障」になりやすいと思う。それも、独学で強引に常識を学んできた人は特に顕著。

なぜかというと、自分の話す内容の語彙力、興味などが周りとずれていることが多く自分の得意なフィールドに持っていくと場の空気を凍らせてしまうことがなんとなくわかるからだ。

じゃあ、他の人に合わせた会話をすればいいじゃんというが、そんなものは一朝一夕でつくようなスキルではないのでそうそう簡単な話で片付けることはできない。

干されるのが一番面倒くさいので、日本社会においてはあんまりしゃべることをしなければ軋轢を起こす可能性が少しでも減る。

それゆえ、空気が凍るよりも根暗でいたほうがまだマシだという処世術としてこの生き方を選択しているのですよ。

 

要するに、空気を読むことを重視する空間がある限り「頭はいいけどコミュニケーション能力が低い」人は黙ることを半分強要されている状態は続くのですよ。

具体的には、組織の中に隔離部署とかを作らない限りコミュ障問題は解決しない。それでもなお皆に合わせて下積みをすることをずっと望んでいれば潰れるか組織を抜け出すのは当然だよね。

 

まぁ、社会適合者の人は相互間で空気を読ませる状態を望んでいるのだからもう解決するというのも結構難しそうな話ではないだろうとは感じているんだな、これが。

 

有能な人がみんなに合わせることはロス

逆に空気も読めるし高いIQも持っているバランスのいい人はみんなに合わせてほどほどに能力を発揮することができる調整能力があるんですよ。

でも、その無駄に高い調整能力ってぶっちゃけ本人にとっては損失以外の何者でもない。

そんなこと気がついていない人たちは呑気に「あの人すごい!」ってワーワーいってる。陰で本人は「お前ら失せろ」とでも思っているんじゃないですかね。自分はそこまでバランスいいタイプじゃないので本当のところは分からないが。

会社の中でもうまくやっていって好成績を残すんだけど、周りのバカ(社会的に本当の馬鹿ではなく、能力の高い人から相対的に見て低い)に合わせているのが本気でばかばかしくなり辞職する。そして起業して大成功するっていうのがお決まりのパターン。

もしくは組織にこだわって、会社員としては結構評価が高いんだけど自分のリミッター解除を逃して普通の人にならざるを得ないってこともあるんじゃないかと。社会的な損失なのかもしれないが、他の人は意図しないにせよそんな状態を望んでいる気がして少し恐ろしくなる。

 

日本の組織は飛びぬけた人の通訳ができない

日本全体としてみればあんまり価値観が変わっていないのでまだゼネラリストが評価されているように見えるが、いつか彼らはどこかでつまづくのかな?という感じがしないわけでもないのよね。一番言葉として近いのが、猪子寿之小飼弾さんの対談

[対談:小飼弾×猪子寿之②] 変化の時代は、何でもそこそこできる「フツーの人」が一番使えない - エンジニアtype

から引用してきたものが該当するような気がする。

小飼 一番の近道は、儲かりそうな「突き抜けちゃってる人」を見つけること。彼らには通訳が絶対に必要ですから、そいつの通訳をやっているだけで、ある程度食っていけると思います。何度も言うように、通訳としての能力は高いものが求められますが。

最も救いようがないのは、自分には際立ったものがないのに、突き抜けちゃってる変わり者を毛嫌いしている自称「常識人」でしょう。そういう人には申し訳ないけど、「あなたの職業人生は、余命あとウン年です」と言わざるを得ない。

 

これはいつなのか、誰によってやられるのかは分からない。日本の雰囲気から見るとだいぶ遅い。むしろ、猪子さんと小飼さんがこんなこと言っている時点でもうだめだと思う。

小飼 でも、注意したいのは、そうやって「フツーの人」を殺してきたのが、普通の人たちだということ。普通の人たちが何かをしてもらう立場になった時、「フツー」じゃ満足できなくなった。

ネット社会、情報化社会になって、「もっと良いのがあるじゃん」、「もっと安いのがあるじゃん」と言うようになったんです。その時に決まったんですよ、「フツーの人」の死が。ヨーロッパなんかは、そのあたりのことに自覚的だと思う。だから、コンビニとかあんまりないですよね。

猪子 ただ、日本じゃもう、この流れは止めらんないと思いますけど。

小飼 うん、止まらない。むしろもっと進んでいく。

 

結局、能力あるけどアクのある人どんどん使えなくなっているよねって話。

これ、もうご臨終宣言もいいところだよ。

組織をきれいな形でそれなりにまわすことはすごく得意だし、その部分を評価しているのは分かる。完成された人で動かせば、それはもう完璧なものできるでしょう。

ただ、日本全体としてみればあんまりいいことだとは自分は思わない。

人間がすべてJISの規格品とかだったら、この理屈でもなんとかなったでしょう。

でも、実際はそういう風になっていないからこの2人が問題提起しているんですよ。

それぞれの得意不得意を埋め合わせて強く物事を動かそうって組織も動けるように整備しないと、これからの日本に社会不適合として扱われてしまう人がウジャウジャ増える。=同じ土俵だけで強制的に戦わせることはすごく国として危険な緊張感を持たせる

 

小飼 あ、分かった! 『エンジニアtype』さんみたいなメディアが、何でこういう対談を企画しなきゃならなかったのかという理由が。日本では、大企業がなくならないからだ!

はてながアクを許容できなくなったワケ

結論から言うと「ぼくのつくったおおきな組織であることを自慢したいから」です。

自分はもともとアクの強い人たちが動いていたはてなブログの時代にはいなかったんですよ。だいたい2012年から少し過ぎたくらいの頃かな?

togetterのツイートまとめみたいなのを見ると本当に戦渦の爪あとっぽいのが結構残っていてびっくりしたもの。

自分がはてなブログに入ってきたときっていうのが2013年の5月なので多少炎上騒ぎがあっても、全盛期に比べるとおとなしい感じだったしその頃ははてな村なんて雰囲気があるのを知らなかった。

ただ、その当時はブログの内容が結構面白いところあったし社会不適合者なりの生き方みたいなのを認める雰囲気があった気がするんですよ。

はてなのオフィスに著名人を呼ぶという文化ができてからだろうか、クセを排除して完成されたものだけを求めるようになってから独特の息苦しさが始まったのではないかと思う。

お金になるってこういう方向に行かなくちゃ行けないのか・・・って思うことが多いなって。結局、経済的・名声的にご立派になるためにアクがどこか抜けなくちゃいけない。

日本人の求める「社会人」というのはとことん角を削られている。

はてなのオフィスに呼ばれる状態って、儲ける能力は高いけどその人のコンテンツの個性がどこかぼやけはじめたってことじゃないのかな?って個人的には思うところがある。まぁ、こんな記事出している時点でオフィスのブラックリスト入り確定な気もするけど。

余談の前に一言言わせてくれよ!

 

 
余談:自分のブログの発想元

エキサイトブログから引き継いだ自分のブログを始めたきっかけというのが、日野瑛太郎さんの「脱社畜ブログ」なんです。

作った当時に日野さんのブログの引用が多かったのはそのせいです。ってまぁ、そこまでさかのぼって見ている人いないから気づかないと思うし移転事故で記事のリンクがおかしいけどさ。

そして、日野さんがビジネス方向にシフトし始めてあれれ?と思い始めたときにイケダハヤトさんが出てきたわけですよ。「おお、社会的に鋭いこと言うなぁ」と感心していたら、ブログ名変えちゃってから高知いって市役所の宣伝くさいことやりはじめちゃったんで、前ほど頻繁に見るのをやめました。