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自動車、発達障害などを扱うブログです。最近はQMAにはまっています。

発達障害が世間向けに能力を発揮できない問題について考えてみた(前編)

まえがき

 

発達障害があるとだいぶ人生の難易度が上がりがちなのですが、ある意味与えられたカードで勝負するしかないと思いながら生きています。

そんな感じで毎日を過ごしていて、ふと記事を見つけたんですよ。

この記事をもとに考えたことを書いていきたいなと思う。

news.livedoor.com

 

能力の凸凹は人によって違う、悩みも違う

 

発達障害にさまざまな診断名がつけられる理由はこれだ。

広汎性発達障害の定義はADHDアスペルガー症候群の症状を包括している。

言い換えれば、発達障害同士の中でも「普通」の基準が違ってくることなんですよ。

発達障害の当事者の特性が人それぞれ違うのはほんとうにこの文章に集約されているなと感じた。

発達障害当事者は「みんな違って、みんなダメ

姫野:発達障害当事者一人ひとりが抱えている症状や、それに伴う悩みもまた千差万別ですよね。

借金玉:私が知人の言葉を借りてよく言うのが「発達障害者、みんな違って、みんなダメ」ということです。発達障害には豊富なグラデーションとバリエーションがあります。職場の発達障害者のことを理解したいと思う定型発達の方は、発達障害を説明する書籍を読むよりも、その発達障害当事者のことをこれまで以上によく見てあげてほしい。ダメの種類は人それぞれ全然違うので。

姫野:そうですね。例えば、うつ病だと典型的な症状や原因があるはずですが、発達障害にはそれがない。また、ADHDASD、LDを併存している方がほとんどで、ひとつの類型に当てはめることもできない。そのうえそれぞれの障害のレベルも異なってくるので、発達障害はとらえどころがない。

借金玉:私が『発達障害の僕が「食える人」に変わった すごい仕事術』で気をつけたのは、なるべく多くの人にリーチするような仕事術を書くことでした。しかし私の書いたライフハックでも救われない人がいるのが現実です。姫野さんの本が素晴らしいのは、発達障害者の多様性をそのまま描いたところです。定型発達の方々も読み終わったとき、「発達障害って結局なんなのかわからない」という印象を抱くと思います。

姫野:「取材を通して発達障害についてどのような結論が出ましたか?」と質問されたことがあるのですが、発達障害というものがわからなくなったというのが、正直なところです。

 

 とくに、「みんな違って、みんなダメ」というのが秀逸なんですね。

ダメでなかったら、そもそも精神科などに相談をしに来るということはなくて悩むことはないからだ。

同じことを繰り返すような形になるが「ダメの種類」というのは本当に人それぞれ違うので使える分はフルに使うし、使えない部分はやらないとか代行してもらうとか道具で対策するみたいなことでカバーすることで対応する。

勘違いしてはいけないのは、発達障害=才能みたいな風潮があったりする。それはあくまで特性がたまたまうまくハマった、活用できたみたいな領域になるしそこから状況が変わったら急に転落する恐れすらある。

もっというと、脳の苦手分野をカバーする補償機能を過大評価しすぎてはいけないのです。素質として認めることは重要だが、それだけで生きるのは正直なところそこまで単純に物事は行かないことのほうが多い。

話を元に戻すと、自分を責めてばかりいるとそこから自尊心が全力で削られていき、本当に何もできなくなっていくという悪循環をたどっていくばかりになる。

自尊心をある程度保ちながらもうまく合わせていくという高度な芸をやれるというのは本当に難しい。

 

マニュアル化できないから難しい 

さきほどの対談で取り上げたことの続き。

発達障害の人の対策が一番難しいところは十把一絡げに同じ方法が適用できないところだ。もちろん、症例として共通する部分はあり、当事者同士で共感しあえることもある。ただ、同じ症状を持っていたとしてもその方法がAさんには適用できてもBさんにはむしろストレスになるやり方だったりする。

二次障害、知能程度、生育環境、興味など普通の人でもばらつきがある。そこに発達の偏りという要素が来るとその人に適合した対策を探すことはどうしても難航してしまうのは仕方のないことなのだ。

ADHDの人、アスペルガーの人、LDの人に同じ対症療法が通じるわけがない。

よく、書店などで発達障害の子向けの書籍があるが、あくまで共通項を見出したものなのですべてがうまく当てはまらずに苦労している方もいると思う。その場合は、本当にそのやり方があっているかどうかを試行錯誤し、「専用マニュアル」を作る必要がある。ただその専用マニュアルを作るには30歳になっても完成しないというのがザラにあったり、もしくは加齢などで書き換えないといけない場合もある。常に更新が必要なのだ。

 発達障害がある?と思ったら早めに療育・対策などをしていく必要があるというのは本人に合わせたマニュアルを早めに作ることと同義なのです。しっかり作りこめばその分対策の強度も上がる。問題が大きくなってからマニュアルを作るよりは、「こいつこけそうだな」と思ったときにはもう動いておいた方がいいことに越したことはない。

世の中の「普通」に合わせるということ 

 発達障害を抱えていると、絶対にぶつかる壁が「普通」になれないこと。

ここで自分を責めてうつ病になったり、自信を喪失したりなど人生のQOLがガクっと下がる。これは本当にもったいないと思うことが多い。

 この記事を読んでいる方はWAIS-Ⅲという知能試験を受けた方も多いかとは思うが、発達障害のある方ではグラフの結果が山のようにジグザグする傾向にある。

 一般の人でもジグザグは多少あるのだが、当事者はもうそれはグラフの山の形で人を刺せるのではないかと思うような差がガタガタに出てくる。

 当然、得意分野で苦手分野をカバーするということになるのだろうが、仕事のレベルになってくるとそのカバーだけでは足りなくなるという現象が起こる。そこからどんどん不適応が始まっていくのである。

後編では、この「普通に合わせること」に関してのコストをたとえ話で掘り下げていく。

 

 得意分野が社会で使えるものとは限らない

 世の中の普通に合わせる。それはつまり、「会社員として使いやすい」ということに尽きる。ただ、発達障害の強い特性は人それぞれ違えど、「妙なことに詳しい」「好奇心が強い」「過集中」など会社員向きのスキルとはいえないものが多い。

だから、メインの仕事に必要な能力と本来発揮しやすい能力のバランスがガタガタになる。また、過集中の特性で一気に仕事を片付けるようなことを行っていると当然仕事の計画などに支障も出てきてしまう。

もう1つの要素でかなり問題になることがある。興味の有無によるパフォーマンスの差である。

ADHDの人にはかなり多いのだが、好きなことになるとターボがかかって没頭できたりするが、興味のないことにはまるで力が入らなかったり集中できなかったりする。

これは脳内物質のドーパミンの分泌量が過度に少ないため、本人の意志だけではどうにもならない部分だったりする。まぁ、それを世間では「なまけ、甘え」と言われてしまう。

本質的な改善方法はコンサータ(以前はリタリン)などの精神刺激薬を使って強制的にドーパミンを出すなどがあるが、入手も決して簡単ではないため途方に暮れている当事者もいる。リタリンの乱用などで管理がかなり厳しくなっているのだ。

定型発達でも興味のあるなしの差はあれど、当事者ほどパフォーマンスが極端には落ちないためこのあたりの感覚を共有することは非常に難しい。

 

もちろん、発達障害だからと言って対策がないわけではない。

得意分野を特化させて、自分の苦手分野を全て得意な人投げられるような環境に行く、もしくは環境的に自分の苦手が問題にならないところへ行く。

環境を変える。緊張しすぎて本来の力を出せていないのであれば、素の自分でも許されるような状態にすれば仕事ができるようになる可能性は十分にあるからだ。

このことは後編でも触れていくつもりだ。

 

苦手分野を克服して、会社員として曲がりなりに働く。

1人で稼げる仕組みで人間関係をなくすというのも一応入れておく。

(株、FXがよっぽどうまくできれば可能だとは思うけどおいそれと推奨できる選択肢ではないかなというのが私の意見です)

 

空気を読み過ぎて疲れる 

このタイトル見た方は「は?空気読めてねえから診断受けているんじゃねえの?」とか思ったかもしれない。

社会適応をするうえで、気遣い・空気を読むことはどうしても必要なのだが、今までの人生で排斥されてきた経験のある当事者は嫌われまいと必死になって空気を読んで空回り、神経を使い過ぎて疲れ切る。当然そのパフォーマンスは劇的に落ちる。

あと、本人なりに空気は読んでいるつもりだが、あくまでエミュレーションベースなので定型発達基準で読めているかどうかというのは別問題だ。そこも突っ込まれてしまう。やらないよりは断然マシなのだが、結果はどちらにしろよろしくない。

そして自己肯定感は失敗の連続を繰り返すことでクシャクシャに踏みつぶされていく。

あまりにもその状態が続くとうつ病などの二次障害へと繋がる。

 

一般の人も空気読んでいないわけではないけど、割と素のテンションが社会に求める姿と乖離しすぎていないんですよ。というか、勝手に雰囲気が分かっているのでそんなところにコストをかけていないことを自覚していない可能性が高い。

 

当事者が必死にコストをかけたうえでパフォーマンスが落ちていることを「単に努力不足」みたいな感じで責めていることも珍しくない。

 

もちろん、当事者が素の状態で話している状態というのはかなり癖が強い場合が多い。そうすると、場にそぐわなくなるのでどうしても合わせるためには無理やり空気読みのアクセルを踏んで少しマシになる程度である。

ただ、それが短時間ならいいのだが1週間の7日のうち、5日はその状態を8時間以上続ける必要がある。この長い時間、ずっと神経を張り詰めているのは一般の人でも疲弊することは間違いない。

当然、ミスや効率の低下などを招きやる気の問題にされて精神的に参ってしまうというのはだいたいの当事者は経験しているのではないだろうか。

また、その状態を無理やりカバーするために過集中などを使うとそれ以上の負担が当事者の神経には毎回かかることになる。

 

体力がないと感じている当事者がいるが、体力そのものだけというよりは神経の使い過ぎによる消耗の速さが主な原因ではないかなと自分は思う。

言い換えれば、異常に燃費が悪いんですよ。車で言えばロータリーエンジンとか2ストに近いんです。でも、本気を出せば一般人よりも力を出せる場合もあるし独特の雰囲気が逆にウケたりする。(あくまで4ストエンジンとの比較です)

なぜ、そんなことをいうかというと2ストもロータリーエンジンも熱心な愛好家がいる。発達障害も完全に淘汰されているわけではない。そういうことなんです。

 

 少し脱線しましたが、そもそも思考回路、脳の働きのベースが違うので定型発達とまったく同じやり方でスムーズに行くだろうなんて考えちゃいけないんですよ。

その人向けに「できる」やり方をアレンジ・補助して最大の力を発揮できるようにしていくのです。

あとがき

 

本当に、発達障害の困りごとって千差万別すぎるんです。聴覚過敏がある人もいればむしろ鈍い人もいる。

同じ発達障害の人でも二次障害を抱えてずっと無職という人もいれば、会社で怒られながらもかろうじて就職している人もいる。

かと思えば、経営の第一線でバリバリ結果を残している人もいる。借金玉さんの言葉を使えば、バリ層、ギリ層、ムリ層です。自分はギリ層の領域にいます。

ただ、ギリ層の人間がムリ層の人間を働いていないからと言って攻撃するのは違うと思うし、むしろそれはもしかしたら自分にも起こりうることだと認識する必要がある。

言い換えれば、自分が相手に向けていた刃が自分に刺さるんです。それの切れ味が強ければ強いほど跳ね返りも大きい。

発達障害の人はちょっと環境が自分向けでなくなるとすぐに転落する可能性も十分にあるからだ。全員とは言わないが、定型発達よりその可能性は高くなると見積もるのは間違いではないと思う。

だからこそ、自分の精神・経済・健康状態が安定する場所を探すことをあきらめないことが重要なのかなということを重々感じた次第であります。

世間向きの能力でないなら、世間とは少し外れた部分で上手くいかせないか?ということも常に考えそこにコミットしていく習慣をつけるべきなんだろうなと思いました。

もしかしたら、いきなりハマって強くなれるかもしれないじゃないかということを肝に銘じて常に行動することが大事ですね。

そういう自分もなかなか行動できていなくて、いろいろチャンスを逃していた可能性があるのでいいと思ったところには動きをよくしていきたいと改めて思いました。