認知の歪みって共感しにくいんだろうなって話。
ちょっとした発達障害関係の話を久しぶりにしようかと思う。
ニキ・リンコさんの本を読んでいるといろいろびっくりすることがある。シャワーや雨が痛い。浴びれる人はえらいなと思うということを自分は今まで考えたことはなかった。それは当然だ。自分には感覚過敏がないから、その感覚で生きたことがないためだ。
こういったものは、世間一般には認知の歪みとして認識される。ADD特有の頭がボーっとする感覚、アスペルガーの字義通りのコミュニケーション、ディスレクシアによる読書不能などが具体的な例になる。もう少しマニアックな領域につっこめば、画像記憶力が異常なまでによくて忘れることができなくなってしまうなんていうのもある。
ただ、発達障害やそれに準ずる認知の歪みを持つもの同士でも絶対共感できない領域はあるということは忘れてはいけない。あくまで当事者の問題なのだから、発達障害の本や教科書どおりになるなんてことはありえないんですよ。
じゃあ、それに対してどうすればいいのか。個人的に考えているのは「持っている歪みに対して罵倒をしない。妥協点や代替案などを見つける」ことだと思う。早い話、理解できないというのは前提なのだ。
これは人付き合いだけでなく、親が子を育てるときにも応用できる考え方だ。
世間の言う普通とは違ってきてしまうから、どうしてもいらついてしまう側面はある。罵倒や人格否定をすれば、その場では溜飲が下がるのかもしれない。だがそれはまったくもって建設的な要素がないし、むしろ罵倒されたことにより両者の溝だけが深まるのではないかということだ。
こういうことを言うと「努力すればいいじゃん」と言ってくる層がいて大変説明が面倒くさいのだが、歪みの要素は努力するにはあまりにも労力が大きすぎる領域に入っているのだ。時間や訓練などで伸びしろや成長する様子がまったくないわけじゃないというのは否定しない。だけど、あわてて急成長をさせることをできるようなものではないことははっきり言っておこう。
ポケモンで言うなら、ラッキーの攻撃や防御に必死こいて9800円もするタウリンなどをぶちこむようなもんだ。レベルが100になれば、レベル5のときよりは確かに攻撃力・防御力は上がる。ただ、そのレベルアップによって伸びた値ですらまともに運用しようとする人はいないんじゃないか?(唯一の例外はカウンターくらいか?)
まぁ、ポケモンの例はここらにしておく。第二世代で引退しているので話が古いのはご勘弁いただきたい。
ある程度は諦めるという要素も実は大事じゃないかなと個人的には思っている。みんながアスリートや大企業の社長になれないように、能力によってできる限界というのはその人の要素によって決まってくる。頑張っているつもりが実は時間を浪費しているだけだったみたいなことは普通にありうる。
とにかく、無駄な人格否定だけはしないように考えていきたい。それで自分の能力が別に上がっているわけじゃないからね。