マイノリティ雑貨店

自動車、発達障害などを扱うブログです。最近はQMAにはまっています。

好奇心を失った者は莫迦だ。

【なんで、いきなりこんなこと言い出したの?】

夏目漱石の「精神的に向上心のないものは莫迦だ」をもじりました。

 これは自分への戒めとしての記事だ。言い換えれば、ちょっと面倒くさい反省文のようなものだと思ってくれればいい。

 結論を言うと、この雑貨店のアクセス数はゆるやかではあるものの右肩上がりをずっと続けている。最近は、日によって変動は大きいが平均700PVくらいのペースだ。

月当たりで換算すれば2万PVちょっとくらいはいける計算になるし、前月のPVがだいたい19800くらいだった。ただし、このPVにあんまり中身があるとは思っていないのも事実だ。

それはなぜか? 記事の内容にあまり中身がない状態かつ、更新頻度が低い。

言い換えれば挙がっている理由が検索SEOに偶然ちょっと引っかかっただけという状態だからだ。

 人気記事トップ3をあげていこう。

zakka10wasabi.hatenablog.com

 

 

zakka10wasabi.hatenablog.com

 

 

zakka10wasabi.hatenablog.com

 

現時点でのアクセストップ3はこれらのSEOだけ強いタイプの記事だ。

言いかたを変えれば、図鑑としての機能を持っているものが多い感じだ。

 

【アンタが言うほかのタイプの記事って何よ?に答えよう】 

それ以外の記事はだいたい、社会と組織適合性、発達障害のことを絡めたことに関してウダウダくだらないことを言ってるだけの状態になっている。

どちらのタイプの記事にせよ、暗すぎるものがほとんど占めているってことなのかもしれない。少し方向性を変えたものが「はやてとゆうこ」になるのだが、感性として一般的なものとはズレがある。

 でも、一定数は興味を持ってくれる人がいるのだから他の切り口を考える必要がある。

【なんかパッとしないのは更新頻度が低いことのほうが問題なのだ。】

思いつく理由をおおまかに考えてみる。

 ・そもそも、話しすぎたのではないか?(=ネタ切れ)

⇒同じような繰り返しをしているということはネタ切れという要素がないわけではない。でも、他ブログではネタの提供が途切れていないことが結構ある。

すなわち、ネタの入れ方とか、整理の仕方に問題があると考えるしかない。

 

ネタをブログに入れるということは、「これ、面白そうだからマジで語ってみよう」ということに繋がる。

もし、自分すら面白いと思えずに使えないわけではないデータの事実だけを淡々と話していたらそれは「あらそうですか。」で終わる残念なものとなる。

ブログを書くときには楽しいことを追求するする力が必要だ。

【好奇心が落ちると莫迦になる理由】

自分の好奇心が枯れると、人が面白いかどうかという観点を考えるという力が格段に落ちる。

Twitterでもなんか考察して発言したというつぶやきのようなものが減ったと感じたら特に注意したほうがいい。言い換えるなら、自分のツイートがつまらなくなってきたなと感じたらブログのパワーもそれに比例してダウンしている。

y=ax+bという一次関数でいうなら、aの傾きがマイナスの状態だ。この場合の傾きaのは「好奇心の枯渇度合い」のことだ。

これが上がっている指標としては精神的に疲れたり、会社などで目の前の仕事だけに没頭しすぎて周りが見えていなくなっているときだ

Twitterを楽しんでいるつもりでも、実は漫然と見ているだけ・語るパワーがなくてRTに頼りまくって主張を代用しているときがすごく危ない。

まともにツイートできるパワーがなくなったなと思ったら、それは好奇心的な感性が大分落ちている。言い換えれば、学ぼうとしなくなっている状態になっている。

だんだんそれを続けていくと知能指数が落ちるとか、仕事能力が落ちるという意味ではない「バカ」になっていくよ。なくなった状態がまずいわけではなく、なくなったことに気づかないのが本当にやばいのだ。

最近、ツイッターのフォロワーがやっと100を超えることができたがあまりにもそれはゆっくりすぎる状態だった。なんかものすごく疲れて面白いツイートっぽいのがあまりにもできていないような感じがあまりにもあった。

だからこそ、この言葉を題名にした。

定型発達者の強みは「安定度」と「とりあえずこなせる事」だと思う

 【はじめに】

今回の話は発達障害の人から見て、定型発達の人がなぜ組織でそれなりに動けるのかという観点で話をしていきます。

仕事で教育を担当する方も参考にされるとよいのかもしれません。

 

(今回、引用はしないけどイメージ用資料として使いたいもの) 

          ↓

 1個目の資料(苦労している人の背景)

2個目の資料 (本題の発想はこっちで動いています)

anond.hatelabo.jp

 

【安定度ってなんですか?】

物事の理解・仕事の習得に関してのことを話していこう。

発達障害の人の場合は仕事の対策もせずいきなりできたり、今までかなり時間をかけていたが急に能力が上がったりすることがある。

教育者としてはすごくハラハラするだろう。正直、当事者としてもできるかどうかを適性と環境のマッチングという運に任せる要素がでかく、能力成長としては不安定そのものだ。

ほかの人たちを見ていると、そういったブレの要素がかなり少ないように感じた。

最初のスタートは確実に一緒なんだけど、ある程度は感覚で覚えられるため必要以上に頭でインプットしていないからそこまで身体的に無理が来ない。

無理がこないというと語弊があるのだが、「感覚」で動き方そのものだけはそれっぽく振舞えるんですわ。

仕事のできる定型発達とできない定型発達の差は共通に持っている「感覚習得」の方法の習得効率と、「言語的なインプット」を後に効率よく詰め込めるかどうかだ。

そこらへんが業務に必要な資格取得などの能力にも関わってくる。=IQの差となるわけ。

発達障害の人が仕事の習得に苦戦するわけ】

発達障害の人の場合は本来持っているべき感覚が組織での「空気読み」によって鈍くなるか、ステータス的にあんまり使えないことが多く、言語的なインプットのみで強引に適応するゆえかなり負担がでかい。

凍ったバナナで釘をたたいているうちに溶けてきてグシャっと潰れちゃう感じだ。他の人からは愚者扱いされる。 

ごめんなさい、ふざけました。

例えば、6ヵ月までに仕事を覚えきるというのは安定した習得能力を前提とした教育スタイルだ。細かい要素があるので、本当はもっと時間がかかるのだろう。それでも、想定されたスケジュールとしての枠組みにはまりこめる安定感があるわけだ。

もっと細分化して言うなら、日にちごとに能力が伸びている確証があるのだ。

昨日はこれができた、今日はこれができた。それを安定して続けられることだけなんだなってことに気がついた。

 

【とりあえずこなせる事とは何ぞや?】

これはどういうことかというと、興味のあることはもちろん強い。でも、あんまり興味のないことも及第点を出せるだけのパフォーマンスを発揮できる。

発達障害の人はそれが0か100か?みたいなことになる。

3個目の資料(堀江くらはさんの話+解説)

zakka10wasabi.hatenablog.com

自分の書いた内容をここから持ってきましょう。

言い方を変えれば、社会適応能力がすごく高い人たちは興味のあること以外に対してパフォーマンスがガタ落ちする人のことがあまり良くわかっていないのだ

逆に好奇心で動く人というのは強い分野に関して突き詰めれば伸びるタイプなのだが社会的な教育上のフォーマットにはまっていないためついつい切り捨てられがちだし、過小評価は避けられない。その要素で日本が失っている部分があるんじゃないかと自分は危惧しているが、それが具体的に何なのかはまだつかめていない。

 

 

定型発達の人の努力の感覚はくらはさんのお姉さんみたいに自分に厳しいのが正統派みたいな扱いになっているのだと思う。好きで繰り返しまくっていたら勝手に能力がついたなんていう発想の人をあまり見たことがない。

外国ではどうなのかは知らないが、日本であまりそういう発想で生きている人を見ることはすごく少ないんだなという実感はものすごくある。

 

【ビジネスっぽさが合わない人もいるんですよ!】

赤字で書いた日本が失っている部分っていうのは、どこかビジネスっぽくない人が生きやすい領域ではないかと思うんですよ。

「目の前のことをこなす」能力は大事だとは思う。

でも、組織の中で動き回ることに最適化しすぎちゃう。デキる人にはなれると思うんだよね。でも、それだけっていう状態はあんまり健全じゃないなって気がすごいするんですよ。

バリバリやっててすごいんだけどカチカチというか、なんかピンとこない状態。

いいたとえがなくて申し訳ないのだが、ビジネスっぽすぎる雰囲気からズレた人の発想って、なかなか面白いんですよ。あんまり見ないからこそ、注目される要素がある。

ただ、日本だとその要素があまりにも受け入れなさ過ぎるんだよな。だいたいは病んで人生真っ暗コースが多かったりする。すごくもったいない感じがして好きになれない。

 

定型発達的な要素でバリバリやる人も重要だと思いますよ。だけど、もう少し人のタイプにたいして受け入れられるバッファみたいなものがあると日本には生きやすさが出てくるんじゃないかなって。

 

 

社会復帰と日常生活のギャップが大きすぎませんかね?

【まず、はじめに】

ここでは、社会復帰を「正社員として給料をもらい文化的な最低限の生活ができる」という定義で話を進めていく。自営業でもある程度応用できる概念なので、日本で一般的な進路として見なされる会社員をベースに解説をする。

自営業の場合はどっちかというと組織適応性よりもスキルがものを言うため、今回は割愛させてもらう。

これから「社会復帰バンドギャップ」という言葉を使う。

バンドギャップというのは半導体の中を電流が流れるために最低限必要なエネルギーのことだが、ちゃんと説明すると議題が終わらないので、これが大きいと社会復帰が大変なんだなってことだけわかっていればいいです。

半導体の概念をわかっている人はこの記事の理解は速いと思います。マジで。

 

 【社会復帰バンドギャップって何ですか?】

一番シンプルな理解はこんな感じ。

跳び箱=社会復帰バンドギャップ

跳び箱が8段あります。1番下は床です。でも、2段目~7段目は跳び箱が邪魔して進めません。だからエネルギーが8段を超える必要があります。

この8段目は、会社への内定だ。

しかし、新卒で入った会社でうつ病になったり、過労や怪我でやめざるを得なくなると社会復帰バンドギャップは上がり、跳び箱が30段くらいまで上がる。

もちろん、これは脚力とフォームを鍛えることだけが条件だ。決してジャンプ台の性能を上げる、跳び箱の段数を下げるなどという大それたことはできないのだ。

【日本の組織は無茶ぶりに対応できる人だけに優しい】

うつ病の療養をしている人はものすごく努力をしている。語弊があるのかもしれないが、脳がエネルギー切れを起こしている状態から復帰することは簡単ではない。

社会復帰バンドギャップが高くなると本人が一生懸命努力してジャンプしても飛び越えるための跳び箱に激突する可能性がかなりあがっちゃうんですよ。

組織的には「君はいらない。いくら努力していようと私の知った話ではない」と言い捨てる。なぜ、改善されないのか。

それはいろんな国や人から日本の会社の労働状況がひどいと指摘されても、空気を呼んで雰囲気が乱されないことだけを彼らは最優先するからだ。

そんなゆがんだ「修羅の国」状態になっている内部事情を平然と切り抜ける人だけがほしいと彼らはいっているわけですよ。

 【組織適応性を素で持っていますか?】

これだけでは足りない。怪我や病気以外で会社員として在籍できなくなるリスクも考えなくてはいけないのだ。

要は、「修羅の国」状態の組織で根っから自然に振舞えなければ社会復帰バンドギャップを上げてしまうきっかけを作ることになるんですね。

  【組織適応性リスト】

日本の履歴書社会における社会復帰バンドギャップを上げてしまうリスクレベルを

「クラス1」「クラス2」「クラス3」「クラス4」として分類。

具体的にはこんな感じだ。

 

クラス1:新卒からずっと同じ会社で職歴を途切れなく勤めている人。

     もしくは転職はキャリアアップのために行っている。

      雰囲気が根っからサラリーマンっぽい人。

      自分を組織に染めることに抵抗がない。

      組織にいると頭がさえる人

ーーーーーーーーーー(ここからは注意!!!)-------------

クラス2:面接がうまくいかず、非正規で生活せざるを得ない人。

      (給料以外はホワイトな場合)

     本当は会社員向きじゃないけどギリギリ組織人っぽく振舞える人。

     (これはどんなにホワイトな正社員だろうと関係ない話)

     組織にいると、所属していない頃に比べてなんか頭がボケてくる人

     発達障害クラスタADHDで、不注意度合が比較的軽い)

 

 クラス3:予期せぬ事態で会社員を辞めざるを得なくなった人。

      組織自体にものすごくストレスを感じ、表面上ですら振舞えない人。

      発達障害クラスタ(自閉度の高い人)

      ブラック企業で無理やり適応している人。

       

クラス4:バイトの面接にもはじかれ、職歴ゼロが長い。

     精神を病んでしまい、それが重篤化しているなど。

 【クラス1~クラス4までの説明・解説】    

ぶっちゃけ、日本の会社の指標ではクラス1>>>>クラス2>クラス3≒クラス4だと思ってくれればいい。1と2の境目は異常にでかい。

下手すれば、クラス1がクラス2にあがる可能性だってありますよ?

ブラック企業の正社員でギリギリ生きている人もリスクの観点から見ればほとんどクラス4に近い。やり手だと出世して打破してしまう人がいるが、そんなやつはめったにいねえ!

 生活できる給料を安定して貰うにはクラス1かクラス2の領域まで持っていく必要がある。正直、クラス2ですら危ないと思っています。自分が実際にそうだから。

【自分のキャパを超えるような組織適応はするな!】

しかし、クラス2レベルの人がクラス1レベルまで上げるには実行コスト・精神コストがあまりにも高すぎる。この精神コストで病んでしまったら何の意味もないんですよ。

そのことを自覚しながら生きていく必要がある。周りが社会適応性に対しあまりにもうるさい場合、適当に流しておかないとマジでやばいです。以上。

LINEと現実の区別があいまいな人がいるような気がする

めんどうくさいので短めに書きます。

うまくいえないんだけど、表現がこれしか思いつかなかった。

頭を整理しながら書いていないので、また書き直すかも。

 

【たわいもない話に対して優先順位が高すぎるんじゃないの?】

返信をすぐにしないと仲間はずれみたいなこといってるけど、それってよっぽどスマホにかじりついていないと無理だよね?

時間とか日程、集合場所、持ち物などの必要な連絡事項のメッセージは見とくべきだとは思う。運転中以外、連絡掲示板としての機能として割と強い。

問題となっているのはちょっとした雑談だ。

【イライラの沸点が低くなっているのかも。】

既読がついてキレるとかいうけど、どうでもいい話にかじりつけるくらい暇のときでいいじゃん。考えごとしたいときとかには結構うるさいんじゃないかね。

いちいち「俺、考えていることあるからまた今度」とかクソだるすぎませんか。

それとも、あれなの?LINEがないと暇すぎて死んじゃうの?ってくらい電車とかでスマホ見てる人が多いのは素早く返信病じゃないけど、そんな感じの使い方に慣れすぎているってことだ。

正直、この記事はずっと人と話しているのがすきなタイプにはあんまり同意されないと思って書いているんですよ。なんでかって、人と話さない時間を作らないと疲れる人のLINEの使い方書いているだけだもん。

だるくなった。終わります。

暴走族は組織適応性が高いのでは?

ふざけたタイトルだと思うかもしれないけど、これ結構真面目に言っています

【なんでそんなことを言い出すのか?】

世間的に暴走族は社会的不適合って結構いわれる。そこには実際に被害を受けている人がいるからだ。めっちゃブンブンうるさいし、いきなり車の間に割り込んできたりして危険だ。今はそれほどないけど、昭和のときは組同士の抗争や殴り合いなんていうのもあった。そもそも犯罪やってるから悪いことをやっていることは事実だ。

 

ただ彼らの中には更生して会社員になる確率が少なくはないんだ。

だからこそ少し考えてみることにしたんですよ。

社会不適合ってどういう種類があるのか?って考えたことってありますか。

よく考えてみるとこの「社会不適合」ってすごい曖昧な言葉なんですよ。

それについて考えていきたいけど、まず前提が必要だ。

【あなたは社会人って言葉を真面目に考えたことがありますか?】

さて、日本の社会の前提について。日本独特の言葉として社会人という言葉がある。ここに社会不適合が曖昧になりがちな要素が隠れている。

そう、みなさんもご存知のとおり社会人というのは会社員のことだ。それも派遣社員やアルバイトではなく正規雇用を受けている人に限定される。脱社畜ブログの日野さんもかなり古い記事において言及しているが、いまでも余裕で通用する記事なので一度見ていただくとすごくわかりやすい。

ビジネス方面に舵を切ってからは見る頻度が減ってしまったが、過去の記事は結構秀逸なものが多いのでほかの記事もぜひ参考にしていただくとよいと思います。

自分が変わっていないということであれば、指摘されるのだろうけどね。

dennou-kurage.hatenablog.com

社会人という言葉は、字義通り解釈すると「社会の一員」ということになるだろう。しかし、現実には社会人とは「定職についている人」を指す言葉として使われる。学生は当然入らないし、フリーターも社会人としてみなされない場合が多い。

 

この、学生やフリーターが社会の一員ではない、という捉え方はおそろしく乱暴だと僕は思う。学生やフリーターだって、人に会うし、物も買う。お金も稼ぐ。立派に社会生活を営んでるじゃないか。山奥に一人でこもって狩猟採集民のような生活でもしていない限り、人はみんな社会人のはずだ。

 

むしろ、この言葉は正社員として就職して働かなければ社会の一員ではない、といった狭量で差別主義的な思想によって支えられている。「社会人としては失格」や「社会人なら◯◯するのは常識」といったテンプレ表現は、単なる生きるための手段に過ぎない労働を、過度に崇高なものにして、それができない人を必要以上に責めるために使われている。

色を赤くした部分は特に重要な指摘をしている。

要するに、社会人という言葉があるということは能力によって受けている待遇よりも、正規の所属をしているかどうかに対して日本人はすごくうるさいことになる。

日本の基準で言う、正規な所属をうけるためには何が必要か?それは組織適応性だ。

【社会人という言葉は、組織人のための言葉だ!】

わかりやすい例をひとつ。

ホリエモンはすごく仕事が出来る。いらつく人もいるかもしれないが、これは事実だ。

24歳で会社を作り、すごく儲けた。インサイダー取引の件で投獄されてしまったものの、もう一度復帰してTV出演や経営をバリバリこなしている。

では、彼は会社員として活躍できそうな感じの男だろうか?

自分も含め、誰もこの問いに首を縦に振ることはないと思う。彼には組織適応性がないからだ。能力があってもいろんなしがらみや規則のせいで空気を読んだり行動を止めたりしなければいけない。

会社員的にいう斬新な発想というのは、あくまで社会の常識の中におさめなければいけないのだ。実力は劣っても、常識っぽく見せる努力がそれ以上に必要だ。

仕事能力は高いから成果は出せると思う。でも、そんな状態に耐えて行動できるか?って話ですよ。もしどうしてもやるとしたら、会社の規則とかクソクラエみたいに思うんじゃないかな。

何が言いたいのがわからない人向けに言い換えれば、上司や一般常識、ブランドの中で都合よく扱えるような状態でなければそれがどんなに画期的であろうと受け入れられることはない。言い方は悪いが、小うるさい連中のご機嫌をとる必要がある。

 

ブラック企業というのは、暴走族と本質は一緒】

両者の本質は組織という集団の単位で法律違反を犯すことだ。

ただ、違うのは違反する法律が労働基準法ブラック企業道路交通法+市の迷惑防止条例(暴走族)かというくらいではないだろうか。

前者は曲がりなりにも書類上、お役所に認められた組織なので暴走族ほどの取り締まりは受けないが、こうした組織で働く日本国民にとっていい影響を与えていないことは事実だ。

暴走族に焦点を当てて話をしましょう。

ヤンキーとかチンピラの世界はアウトローだが、本質は上下関係の厳しい体育会の世界だ。会社に好まれるのは運動部出身の体育会系だが、背景は違えどノリがそのまま通用するやつらなんですよ。

2つ前の記事でも言ったけど、野球部の強豪高校のやつらは裏でのエピソードが暴れたヤンキーと大して変わりない。PL学園のいじめの話とか胸糞悪すぎる。

暴走族に入るということは、組織の中でうまくやっていく必要があるということだ。

そう、ここで重要なのは日本の学校教育が嫌いなことと組織適応性がないことは別のものとして考えなければいけないということ。

昔、自分は「なんでヤンキーはわざわざグレてまで学校みたいに厳しくされる集団なんかにまた入りたがるんだ?」ということを本気で考えたことがある。

ある人に聞いたら「あの厳しい感覚にしびれるんじゃないの?」という答えが返ってきた。だが、それはとてもではないが納得できる返答ではなかった。

その答えがここ最近になってわかり始めたような感じだ。

【教師が嫌いなのに、厳しい組織に入る理由】

学校が嫌い。先公が嫌い。でも、後者のストレス要因って本質的には問題が解決していないんだよ。なんでかっていうと暴走族の先輩と学校の先生って自分が従わなくてはいけない上位の相手という点ではまったく一緒だからさ。

でも、彼らはそこに入る。なぜなら、組織の中に入っていくことが嫌ではないからだ。

組織適応性のないアウトローというのは絶対に集団で悪さをしようなんて考えることはしないんだよ。だから、グレようという気にもならない。集団で暴走するためにはチームワークが必要だ。

「男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学」という男性学を専攻にしている田中俊之先生の本に次のような暴走族の話が書いてある。

誤解されているかもしれませんが、暴走族は非常に統率のとれた集団です。上下関係は厳しく、基本的に20歳で卒業していきます。また、公道で暴走行為をするためには、役割分担が重要です。例えば、警察をまく係がいたり、十字路での衝突事故を防ぐために道を塞ぐ係がいたりします。要するに、暴走族内部のルールを遵守し、しっかりとした集団行動をとる必要があるのです。なお、妙に詳しいと思われるかもしれませんが、経験はまったくありません。

やってることは間違いなくいいことじゃない。でも、統率は取れているので企業的な要素持っているんですよ彼らは。だから暴走族が更生して・・・会社員でバリバリみたいなエピソードがあるけどあれってそんなに方向性がずれているわけじゃないんだよね。

だから、ブラック企業って言い換えれば経済界のヤンキーやDQNみたいな感じなんですよ。ブラックとして名高いワタミすき家は最悪のヤンキー・ヤクザ組織の関東連合みたいなものにあたるんじゃないだろうか。

 

【組織に疲れた人へ】

今の日本は構造上どうしても会社員としての生き方を求められちゃう。だから無駄に組織適応性を問われてしまうわけだ。自分だけの小さな組織というのをすごく作りにくい。だからこそ、人生に疲れて自殺をする人が増えているのかもしれない。

組織適応性がないことを自覚しているが、会社員として嫌々働けていられる人はまだラッキーだと思う。

「うるせえ」とか思いながらふてぶてしく社会適応したフリをできているなら儲けものだ。どのみち本当の意味で適応するなんてことは自分にとってもきつくなるだろうから、無理に「社会人っぽくしようと意識すること」はおすすめしない。

どっちみち、そんなガラにもないことしたところでボロが出るのは時間の問題だ。

ただ、「うるせえ」とも思えずに日々憂鬱な気分で死にたいというのなら辞職を想定するという選択肢は持っておいたほうがいい。

精神を壊してしまってからでは復帰をすることはすごく難しい。まぁ、そういう壊して云々の話はのほうが実体験からもっと深いことを述べているのでここのブログより説得力あると思いますぜ。

組織適応性がないなと感じている人にはもう一言。

【"社会の常識"とやらに過剰適応するな!】

別にルールや規則を破れなんていっているわけじゃない。

自分は組織だけのために生きているわけじゃないということ。それは自分のためかもしれないし、友達のためかもしれない。組織に所属していれば経済的に生かしてくれるレベルは上がる。だけど、組織と自分の区別はつけておいたほうがいい。

これをもっと具体的に言うと、自分の所属組織=社会みたいな感じになって大学生や子供に説教するような大人になるなということだ。この手の説教をしてくる人の話はあくまで組織内の振る舞いだけに関してであり、電車内などの「公共社会」まで言及はしていない。

わざとではないのに、軽く当たったくらいであからさまに電車の中で舌打ちするようなスーツの男を自分は何人見てきただろうか。まぁ、しょうがないなと思うようになりました。(=あきらめた)

スーパーなどで店員に威張る人も同類だ。

その組織内の正しい振る舞いも本当にいいのか?と思うくらいがちょうどいい。常識が身にあってるならそこに関してはもう何も言いません。

日本の人たちは意外と狭い価値観で生きることに慣れすぎている。

労働時間が長く、会社という狭い世界で生きているから「社会では通用しない」みたいな話がある程度通じてしまうように感じるだろう。

でも、そういう状態って本当にいいのか?って考える必要があると思いますよ。

 

 

ギア比の設定と使い心地を並べてみた

 

 

1速⇔2速がワイドレシオな場合

メリット

1:加速時に回転数が結構な勢いで落ちるので、低速トルクの強いエンジンでは静粛性と加速力を両立できる。これによって燃費もよくなる。

2:また、2速にした後は若干ハイギアードなため、流れの速い幹線道路などではそのままのギアでも割と高い速度まで引っ張る準備ができる。(そのかわり、加速は若干犠牲になるが・・・)

3:外車などに多いダウンサイジングターボでは1速をローギアードにし、回転数をあげて加給を早めることでハイギアードに設定された2速で回転数が落ちても十分なトルクを確保できる。

4:軽トラのように1速を発進用と割り切るようなギア比設定ならクラッチをつなぎやすく、次のギアで静かに巡航しやすいという運用が可能。

 

デメリット

1:時速10キロ以下の渋滞路・駐車場では、回転数が落ちすぎて2速ではトルク不足でギクシャクする。要するに、微妙に速くなった速度でも1速のまま走り続けないといけない場合がある。

2:険しい山道での発進では1速で回転数を上げたにも関わらず、すぐにシフトすると2速で回転数がかなり落ちるためパワーが足りなくなることがある。

3:低いギアで回転数を上げてシフトすると、変速後の回転差が大きくなるため雑なクラッチ操作だとシフトショックが出やすい。特にMT初心者はこれでめちゃくちゃ気を使う。

 

1速⇔2速クロスレシオな場合 

メリット

1:渋滞路では割と速めにシフトアップできるうえ、2速でもギア比が高すぎないため十分なエンジンブレーキを活用できる。

2:山道でも、発進後2速にシフトしたあとのパワーバンドが外れにくい。

3:軽自動車では排気量の制限があるため回転数を上げないとパワーが出せないが、ギア比が近いことで回転数をそれなりに保てる。

4:狭い道や駐車場でも2速に入れやすいので、そういった場面で静粛性は保てる。

デメリット

1:広い道では、引っ張っても最高速が伸びないからシフトが忙しい。(賛否両論)

2:乗用車向きな乗り方で考えると燃費・静粛性が落ちる傾向にある。

3:発進時に回転数が上がりすぎてしまうため、低回転でも十分なトルクのある燃費志向の大排気量エンジンには向かない。

 

 

2速⇔3速がワイドレシオな場合

メリット

1:幹線道路におけるシフトアップでは静粛性が高まり巡航しやすいため、燃費重視の乗用車エンジンにはすごく向いている。3速で引っ張りやすい設定ともいえる。

2:右左折のさい、かなり低速ならシフトダウン後の加速がしやすい。

 

デメリット

1:流れがよい状態の右左折のスピードだと、2速では低すぎて3速ではパワー不足ぎみということがある。

2:山道において3速のギア比でエンジンブレーキが弱いと感じたときに、2速に入れると五月蝿いばかりで最高速が伸びなくなるので排気量によっては交通の流れを悪くしやすい。もしくは、回転数が高すぎて2速が使えなくなる。

 

2速⇔3速がクロスレシオな場合

メリット

1:山道のくだりの急なカーブなどで2速へのシフトダウンによるエンジンブレーキの強化が非常にしやすい。とくにエンジンブレーキの弱くなる小排気量の車ほど影響が大きい。

2:高回転エンジンではトルクのある部分が使いやすくなるため、かなり山道でも細かい調整が利きやすくなる。

 

デメリット

1:街中ではシフトが忙しいので2→4の飛ばしシフトくらいでちょうどいい場合がある。(軽自動車ではトルクがないのでおすすめしない)

2:大排気量で低速トルクの大きい車ではここらへんの設定自体に意味があまりない。

 

 

3速⇔4速がワイドレシオの場合

メリット

1:シフトアップ時の4速巡航が静か。

2:上り坂でシフトダウンしたときの加速力アップが期待できる。

3:車種によっては、3速でも左折がしやすい。

4:低速トルクのある車なら燃費がよくなる。

 

デメリット

1:平地でシフトダウンするとき、ギクシャクしやすい。

2:3速を割と引っ張らないと巡航がもたつく。(小排気量ほど顕著)

 

 

3速⇔4速がクロスレシオの場合

メリット

1:60kmくらいの割と高いスピードからでも、シフトダウンを併用してのエンジンブレーキが使いやすい。

2:上り坂でシフトアップしてもパワーダウンしにくいため、静粛性がマシになる。

3:ワイドレシオに比べ、高い速度での右左折がしやすい

 

デメリット

1:強めのエンジンブレーキを期待しすぎると思っていたより利かない。

2:3速が加速向きのギア比だとシフトアップ後も巡航がうるさい。

3:高回転エンジンでは燃費が伸びない。

 

4速⇔5速がワイドレシオの場合

メリット

1:巡航重視の5MT車ならエンジン回転数を落とせる。(燃費・静粛性)

2:ギアの離れ具合が適切な範囲であれば、高速道路でのエンジンブレーキが強めにできる。

 

デメリット

1:街中で無理に使うとすぐに4速に落とす羽目になる。

2:シフトアップ後の加速が悪くなる。

 

4速⇔5速がクロスレシオの場合

メリット

1:加速重視の車なら、5速からでも加速・エンジンブレーキの活用がしやすい。

2:低速(50~60km/h)からでも入れやすい設定にできる。

デメリット

1:5速MT車だと高速道路巡航の回転数が高くなり、燃費や静粛性が下がる。

2:高速道路のシフトダウンによるエンジンブレーキがやや弱くなる傾向。

 

 

 

5速⇔6速がワイドレシオの場合

メリット

1:1速から5速を加速向きにして、6速だけを高速巡航としてギアの割り振りがしやすい。(燃費向上のための振り分け)

 

デメリット

1:ラリーなどで使う加速重視の車では巡航のためのギア比を設定する意味があまりない。(6速にしたことで歯車を薄くするので、耐久性が落ちる)

 

5速⇔6速がクロスレシオの場合

メリット

1:5速をトップギアにして、その下の1~4速の間のギア比を詰める設定ができる。

(加速重視のラリーカー向け)

2:低速域(~80km/hくらいまで)ならギアの選択による運転の仕方の調整がしやすくなる。

 

デメリット

1:高速巡航が苦手になるので、燃費や静粛性は劣る設定にせざるを得ない。

2:ギアの間が細かくなるので町乗りではシフトチェンジが忙しくなる。

世間が求めていた「コミュ力」ってこういうことだったんですか?

今日、こんなツイートを見かけた。視点がすばらしいと思ったので言及させてもらう。

 

【○○が好きな文化系の学生は採用しない=私は体育会系独特のコミュ力しか対応できない人です

企業側の言い分としては、「商品を消費する人と商品を売る側の人の分別がついていないんじゃないの?」といいたいのかもしれない。

言いたいことはわからないわけじゃないさ。ただね、商品を売る上で、商品の知識を学ぶ能力が高い人ってどういう人なのか理解していないからこういうこと言うんじゃないのかね?って気持ちになるんですよ。

 

ここから考えさせてもらうと持っている知識や本来のやる気を買おうとする意志を試しているかというと微妙なんだよ。物を売る上での知識とか背景とかに詳しいっていうことはその分野に関してはオタクにならざるを得ないんだよ!

その分野が好きな奴は好奇心が手伝って商品知識の習得が早いことを理解していたら、こんな発言はできないよ。

例えば、鉄鋼関係とかで営業するじゃないですか。

客先でステンレスの材料について聞かれたとしましょう。その関係の知識なくて

「SUSってなんですか~?僕わかりましぇーん」とかいうの?

話を聞いている限り、自分たちがあんまり関わってきたことのない理系とかオタク風の学生を弾き飛ばしたい口実にしか聞こえないんだよね。

 

あんたらが、本当にコミュ力がある人がほしいっていうんなら理系や変なことに詳しいオタク系のやつともうまくコミュニケーションできることを見せてからにしてもらわないといけないよね?

だって、仕事上でコミュニケーション能力がほしいんでしょ? ならば、あなたたちはコミュニケーション能力がなかったらまずいことになる。

それともなんですか?コミュニケーション能力というのは「体育会系特有の常識だけを持ったコミュニケーション」に限定されてるのだろうか。

もし、後者だとしたらあまりにも価値観が狭すぎる。

前提として体育会系がプロのスポーツマンとしての発想から来ていると主張するとしよう。それに対する自分の答えは「ちょっと待て」と言いたい。

【日本の体育会系はスポーツマンとしての精神とは違う!】 

スポーツを激しくすると体力が消耗する。体力が消耗したら休んで筋肉の回復を待たないと次の試合とかに影響が出る。

それに対して日本の会社のブラックな体育会系って「休む」発想がまったくないんですよ。要するに、スポーツ科学の視点から見た筋肉の回復もへったくれもないわけ。

それで根性がある? ふざけんな。疲れている・無茶に慣れすぎて感覚が麻痺してるだけじゃん。運よくつぶれていないだけだよね。

あともうひとつ考えるとするなら日本の会社というのが体育会系やマイルドヤンキーみたいな人たちに最適化されすぎて他のタイプの人種を入れにくくなっているんじゃないですか?

同じ性質がゆえに秩序は高いし安定はするけど、いろんな要素が混ざらないから変わるということに関してはすごく弱い。

昔の記事でも何回か言及したけど高度成長期はそれでもよかったんですよ。単一な人材で回せるくらいの時代だったの。その構造をまだ見直せていないってことなんだ。

ちょっと前の記事でもいったけど、自称常識人として干される日が来る。

【体育会系の人が世間的にコミュ力あるように見えてしまう理由】

 

体育会系独特のコミュ力について少し話していこう。

野球の強豪高校とかさ、体格や能力としてはすごい奴多い。けど内部告発のエピソードがあまりにも人としてクズすぎるんですよ。

後輩をボコボコにしたとか、罰ゲームで厳しい上下関係を身につけさせたとかそんなことを手柄にしている発想が理解できないんだよ。自衛隊関係の連中もそう。

本来なら、暴行事件だから警察がかかわるべきだよ!しごきとかですましていい問題じゃない。

TVで写す雰囲気が華々しいから美しい風潮にしたがるんですよ。

恐ろしいのはマスコミとか世間の人たちがそんな倫理感覚を持っている人たちを問題視しないことだよね。高校野球の試合の結果くらいしか見ていないんじゃないか?ってくらいのひどさ。これは情報収集のリテラシーのレベルもあるので単純な問題ではないんだけどさ。

結構勘違いされるので言うけど、自分は野球というスポーツが根から嫌いというわけじゃなくてその界隈に停滞しているクズの自浄作用のなさが本当にいやなんですよ。

言い換えれば、自浄作用のない組織に適応しているので同じ雰囲気のような会社に入ったとしてもそのままのノリが通用しちゃうってだけなんですよ。

しかも、上役の人に対しては黒い部分をきれいに隠すのが彼らはめちゃくちゃうまい!ある意味感心しちゃうと思うところだ。賞賛はできないけどね。

だからこそ、同じようなシゴキを受けても自浄作用として働こうとする桑田真澄とかはすごい評価したいんだよね。

 

{教育のしくみとかそういうのは面白いんだけど、球技観戦に興味がないので野球の試合を見ることが好きな人とは話が合わない・・・。簡単に言えば、世間を理解する道具として使っているので興味の持ち方がおかしい。だから、セ・リーグとかパ・リーグとか言われても何じゃそりゃ?って感じになる。}(余談)

 

もうひとつ、ツイートを。

 

【運動部に所属してかつ、体育会系のマインドに同調しなければいけない】

 

問題の本質は所属していたことじゃないんですよ。なかなか鋭いところ突いている。

運動部やっていたからこそ、体育会系の黒い部分を見てしまってあのノリに憎悪を感じる人がいるわけだ。そういう態度を感じ取ると、体育会系は必要以上に敵視するんですよ。それは、怒ったスズメバチのごとく違う巣(考え)のものをつぶすかのように。

余談だがチャラいやつとかは毛色は違えど、空気を読むことがすきなのでそういう集団に慣れているんだ。意外と親和性が高いのはそのため。

【体育会系偏重社会は技術系の人を軽視する社会】

 

社会を体育会系だけで回そうとしていると、結局はオタクが強い研究・技術関係ってつぶされる。形だけスーパーサイエンススクールでお茶を濁すようなことしたって、そんな付け焼刃な発想が通用するわけないよ。根本から治さないとだめ。

華々しいノーベル賞は好きだけど、内容なんかどうでもいいやって感覚がものすごいある。要領はいいけど、深みの足りない人たちばかり構成してどうするのってことになるんですよ。

ちょっと自分でも言い方が悪いと思ったのでフォローすると、こういった要領がいい人たちを批判しているように見えるが、彼らは社会的には必要な要素だとは思うんですよ。団結とかそういう能力ではやっぱり強い。

だからこそ、あえて見出しの「偏重」を赤くしたのだ。

ただ如何せん日本はそのバランスが悪すぎる。いらちな奴が多すぎて大事なこと見落としているんじゃないの?ウワベだけ持っていこうと思っているんじゃないかってすごく感じる。

そういうことを警告しておきたいってことで、今回は以上です。