発達障害の精神年齢が低いのって本当に人生経験が足りないせい?
はじめに(前記事の振り返り)
発達障害の人の精神年齢がだいたい健常者の6~7割または3分の2という説は割と強いし、当たっているとは思う。そのことに言及する記事を昔作ったくらいだ。
幼い理由、考えたことある?
「発達障害の人が幼いのは人生経験や苦労が足りないからだ」という意見が結構多い。ここでは単純に「低い」と言い切ることに待ったをかけたい。精神年齢が低く見られるメカニズムを理解してから議論をしていただきたいと思っている。
そこで参考記事をもうひとつ。
これですね。少しだけ引用しましょうか。
ある掲示板で、
「ニート・ひきこもり状態にある人は顔立ちが子供っぽい」
という書き込みがありました。
もしその中に発達障害があるがため、社会に出ていけずに、結果、ニート・ひきこもり状態にある人も居るのでは、と思いました。
(実際のところ、相当多いのだろう)
「人生経験が少ないから。経験は顔に出る」
「誰かと会話することも少なく、お日様知らずで表情も変えずにネットやゲームをして過ごすから、顔の筋肉が衰えている」
とする書き込みもありました。
それはあると思う!
しかし、発達障害のある娘さん(専門学校生)を持った親御さんは
「発達障害のあるひとは、俗物に染まらないから、いつまでも若い。老けない」とも仰っていました。
うーん、発達障害の有無に関わらず、その人の生活スタイルとかその人の生活環境の違いだろうか。良くも悪くも。
誰にとっても、
無理して頑張りすぎる必要もないけど、
ハリのある生活は大事ってことだな。
言いたいことのにゅあんあすは分からないわけではない。ただ、自分としてはこの説明が不十分ではないかな?ということを述べておきたい。
インドア=発達障害じゃない
確かに発達障害の人はゲームとかのインドア趣味が好きな人多いけど、この人の説明だけではちょっと証拠としては甘い気がする。
その理論をもとにするとゲーム廃人の定型発達者はどうなるのか?
インタビューなどを見ると彼らはそれなりに大人っぽく見えるし、またその理由も説明できない。
そのためには、脳、感情の成長度合とかの観点のほうを軸として考えないと合点がいない部分が多すぎるんですよ。
発達障害には社会性を積ませない仕組み
個人的に考えているのは、「発達障害があるとそもそも人生経験を積ませてもらえないくらい、精神年齢や社会性の初期パラメータが低い設定になっている」ことだ。
個人差はあるものの、ADHDやASD、PDDを持っていると友達はいないわけじゃないけどクラスでは浮いてしまうなんていうのはザラだ。
成長の関係上、どうしても精神年齢や興味が同級生と追いつかないというのがあるから無理やり合わせたところで相手も自分もギクシャクするばかりだ。
じゃあ、SSTを受ければいいじゃない?という人がいる。間違ってはいないが、現代社会がそこまでシンプルじゃないのでそれだけでは足りないんですよ。
後付けの社会性を受け入れにくい定型発達の人たち
言い方を変えよう。
発達障害の人が頑張って定型発達の人に追いつこうと社会性を身につけた状態は、やらないより何十倍も良い。だが、完全なる問題解決といくのは難しい。
労力が「広辞苑をがんばって覚えるようなもの」であり、カバーしきるためには時間が圧倒的に足りない。知能が高ければ、この習得時間を短縮できるのでやっていける人もいるだろうが日本社会的には少数派だろう。
発達障害の人は生まれ持った精神年齢・社会性の差を訓練やパターンに頼った処世術だけで埋める。仕事以外ならなんとかなるのだろうが、生まれつきの非言語能力が低い当事者が会社員として働くには英検1級を受験するような感覚で社会性を後付けしなければいけないのだ。多くの人が脱落しやすい原因はこれだ。
定型発達の人が会社員として続けやすい理由
定型発達の人は社会適応の方法を小学校・中学校・高校と無視意識のうちに習得できてしまう。身につけた社会性の応用力とスピードに関してはもはやレベルが違うのだ。
さきほどの例えを必要な努力量で比較すれば、定型発達の人が会社員になってから社会性を勉強する度合いは英検3級くらいだと思ってくれればよい。
むしろ、日本国内であれば特別な能力はなかったとしてもこの能力さえ持っていれば最低限死なない気はする。(実力主義の研究職・専門職などは除く)
当事者は好きで幼くなっているわけじゃない!
人生経験をつみたくても拒絶されてしまうことが多いので、結論だけ見れば幼くなりがちなのはあながち間違っている意見ではない。だけど、「お前は人生経験が足りないから幼いんだ」いうのは違う。
日本の人たちはそういうことをはっきり指摘して改善をしてもらおうという傾向が少なくて、いつの間にか離れていくか、察しないことがムカツクから迫害だけするパターンが多すぎるという受け手側の理由も絡んでくるんですよ。
対策する前にやられる
だからそこは当事者側の対策のしようがないんだよね。彼らはそんなところから情報を得られないからね。
人生経験を積むとかそういう以前に、はじめから拒絶されちゃうからコミュニケーションの正しい・悪いの感覚が分からなくなっちゃう。社会不適合をこじらせる第一歩は小学生・中学生から始まっているのだ。
子供のころから対策をする必要がある大きな理由
だから、発達障害の対策や支援は子供のうちからやれというのは合理的なのだ。
ただ、自分も含めた90年代生まれくらいのアラサー世代はまだ碌に発達障害の知識や本が出回っていない、世の中にも全く浸透していない時代を過ごし支援の手から漏れて対策が手遅れ気味になっている人が多くなっている。
もっといえば、それ以上に支援がなかった40代、50代の当事者はただつらい時期を過ごした方も多いのではないかと思う。そして、自分たちよりも対処の方法が厳しくなっているのも現実だ。
あとがき:当事者はどうすればいい?
ただ、支援から漏れた当事者は対処遅れているから意味ないよね!というとそれは違う。発達障害という言葉は知られても世間が別に容赦しなくなるわけではないのだ。
自分が自覚し始めたらそれに対してどう対策するかという観点を持つのは大事なんです。歩みを止めるわけにもいかない。でも、世間に完全に追いつくというのもかなりきつい話です。だから、自分のなかで対応できることは全力でやろう。
自分1人では、へたばるのも無理はない。
機械・人の助けをうまく借りる。別に全部1人で抱え込む必要はないんです。
書字障害で文字が書けなければ、タブレットやPCを活用すればいい。
何のために技術を発展させているんですか。
それがこのマイノリティ雑貨店で言いたいことだし、他の支援者も言い方は違えど方向性はそこまで違わないと思います。
「遅れた人生経験を取り戻す」、借金玉さんの言葉を使うなら「やっていきましょう」というお話になります。
だから、当事者は一緒に関わる人に「発達障害のリテラシー」が最低限あるかどうかという目を養う必要があるんですよ。付き合っていて自分の中のハードルの克服に対してあまりにも害になるという人とはできるだけ距離を置く。それは本当に思考錯誤だし、心が折れそうになるかもしれない。
でも、何もしないっで腐っているよりは全然いいんです。もし、ダメならば専門の機関もあります。
届かなければ、はしごを使えばいいんですよ。無理に背伸びしたって、足をつるのが関の山です。使えるものはしっかり使う。
支援側には「情報の提供」が重要な使命です。
もちろん、本人が努力をするためには背景の支援があるということ自体が前提なんです。勉強道具もないのに、「勉強しろ」なんていっているのと大して変わらない。
伝えられることは当事者に伝えていかないといけない。そこは小学校~大学まですべての教育機関がこれから整備していく部分。
そして、ドロップアウトしてしまった人にも相談できる場所をもっと整備していかないといけない。1人である程度なんとかできるような人だったらそもそも支援機関なんか最初からつくられていない。
あの最高学府であり、最高の知能である東京大学の学生ですら解決できない問題がそこにはあるんです。ということは、支援をやっていった知見をもって解決できる側が何もしないというのはナシですよ。
どっちにしても動かなくてはいけないんだなということを実感いたしました。